心理分析と言語分析

ずっと以前、言語分析の専門の人と話して

ずいぶんと話が明晰で
いい学問だと思ったことがある
最近の経済学は読んでもよく分からないし
現実の経済をうまく回すこともできないし
結局理論も実践も何となくダメらしいと見当はつく
最近の心理学とか精神医学も
なんだかんだいいながら自殺者を少なくできないし
うつ病は増え続けるしという結果だ
統合失調症もうつ病も軽症化して外来で治療できる感じになってはいるが
一般の人々が安心しているわけではないし
専門家も安心はしていない
精神薬理学の進歩はいろいろにあったと思うが
心理学の進歩はどうかと言えば
本質的な突破口が開けていないと思う
フロイトの時代から本質的な進展はないように思われる
ところがフロイト自体が大変難解で
さすがにカントやハイデガーの学問した言葉を使っている人なのだけれど
英訳を読んでもやはり簡単ではないし
日本語訳は格段に分かりやすいとも思うが
それは長年慣れ親しんで
自分たちなりの解釈ができるようになっているだけではないかと思う
そうでなかったらドイツ語でも英語でも同じように分かるはずだ
フロイトをあきらめるとして
現代日本語でどうかと言えば
荻野恒一と笠原嘉である
それも全部が素晴らしいわけではない
(恐れ多いことを言っているが、まあ、つぶやきだから勘弁してもらおう)
世の中にある「心理分析」というものがどの程度のものであるかは、
理性のある人ならば判断できるはずだ
おおむねを言えば、すべてを血液型で解釈してしまう
阿呆流と同次元である
厳密な検証にも持ちこたえられるだけの心理分析はあるか
考えてみると
頭をひねって別解釈が多分成立するケースが多い
細部については勿論であるが
その集大成としての診断が食い違うこともよくある話である
統合失調症と多重人格やPTSDなど
チキンと検証するシステムがなくて
声の大きい人が自分の流派のことを言ってそれでおしまい
そんなものだと言えばそんなものなのだけれど
心理分析に比較すると
言語分析は客観性を持たせることが可能かもしれない
次に出てくる言葉の確率を予想することができる
たとえば否定的思考という
そのように「思考」の実体がどのような神経回路の裏付けを持っているか、
解明されるまで、本質的な解決はお預けである
否定的言語習慣ならば分析もできるし訂正もできる
思考などはよく分からないものだ
言語習慣といった方がわたしには分かりやすい
言語習慣は個人の内部で何層かに積み重なっている
名古屋で生まれて育てられ
京都の大学で学び
アメリカの研究室で学び
パリの研究室でしばらく苦難を体験し
日本で家庭を持ち
現在に至るという人の場合、
おおざっぱに言って、
日本語、
関西文化、京都学生文化、
名古屋子ども文化、
家庭の言語習慣、
個人的言語習慣、
その脇に英語の経験、などが
積み重なっているだろう。
だいたい10階建てくらいの建物を想定して、
そのことの言語習慣を分析する。
そんな中で、
例えば、否定の言葉を選びやすいとか、
語尾を曖昧にしやすいとか、
朧気で陰影のある言葉を選ぶとか
平気で嘘をつくとか
自分を飾りすぎるとか
心理分析ではなく
言語分析をするのである
一時心理学では心理分析ではなく
ストップウォッチを持って行動分析をしたものだ
何を話すかの内容への感心ではなく
どの言葉が語られるまで何秒かかったかを
ストップウォッチで測定し
人間と人間の距離はどれだけなのかを具体的に
物差しで測定した
その後はたとえば赤ん坊と母親の交流をビデオに撮って
客観的な分析として
目が合う回数とかを数えた
行動の測定の時代である
言語の測定の時代が来ていると思う
コンピュータが使えるから
ーー
などなど言ったところで
分析に値する
人間がいることが前提条件である
フロイトの時代にマーラーがいたわけだ
フロイトとマーラーならばどちらにでもなりたいが
現代の日本で何になりたいかと考えても
どうも元気が出ないのだった