女教師もの

アダルトで女教師ものが根強い人気を持つ理由

頭の悪い娼婦よりも頭のいい女教師や女医やキャリアウーマンが設定として好まれる
実は女自身の内部の肉欲に逆らうことができない、あるいは肉欲に目覚めると設定される
これは女が恋愛マーケットで価値あるものとの説明が不要になるので便利な設定である
普通、知能も低く、家柄も悪く、美しさと言っても特記するほどでもなく、その他の特徴もない、
そのような女性の恋愛マーケットでの価値を説明することは小説内部では容易ではない
ただ処女であることの価値は妊娠したとして自分の子どもである可能性が高いと男性に思わせる点で
魅力の説明が容易であるが、それだけでは物語にならない
その女の何がそんなにいいのかについては小説の描写は届かないことが多い
その女がすばらしいと仮定して、そのあと、どんなことが起こるのか描いたものが多い
女の魅力そのものについての考察が足りない
たとえば女の欲望は元々内部にあったものなのか
外部から植え付けられたものなのか
明確ではない
肉体改造の結果とかある種の薬物の使用による強制的催淫の場合は
外部原因説となるが
それは感興を削ぐ
当たり前すぎて興奮に至らない
メディカルすぎる
むしろ内部原因説が好ましく
しかしそれを隠し通し同時に最後には露わにし
過程においては導かれる如くにしかし自ら導くのであるが
しかしそう言ってしまっては変化に乏しい
女教師の側がセックスマーケットで価値のある肉体と精神を持ち
男子生徒の側が価値のない肉体と精神しか持たず
その不均衡をずるい手段によって切り開こうとするところに工夫がある
その工夫が物語になる
ずるさが様々な興趣につながるのである
人間のあさましさである
小説の内部でならば許されるだろう
女教師は大学も卒業して職業人として将来も約束された身分である
男子生徒はさまざまな可能性があるだけで全く何の確実な価値もない
その不均衡を性的好奇心と空元気だけで乗り切ろうとする
好奇心は旺盛なはずであるが
現実には余裕のない態度は避けられず経験の不足からくる不満足な行為も心理も不可避なのであるが
それについては触れられない
物語が進行するのは
男性の側に圧倒的な魅力があるからではない
男性機能の誇大な表示は外見からは不可能である
女性とは違う
女性の側には明らかに魅力があると設定されているのであるが
魅力のない男性が自然でない手段によって切り開くところにファンタジーがある
結果として多くの何の魅力もない男性、劣位の男性が感情移入しやすい
誰でも学生の頃にはマーケットでの価値が確定していないので
女教師の方が安定した価値を持つ上位の存在であり
男子学生は劣位である
この構図が世間の大多数の永遠に劣位の男性の共感を呼び起こす
普通の恋愛マーケットでは男性の価値が優位で女性の価値は劣位の構図で
その場合に自然な秩序が形成される
マーケット価値が対等の場合にはたいてい女が損をしたと思い不満を抱いている
女性が優位の場合にはたいていは恋愛として成り立たない
わずかに性的機能のみを求めたチャタレイ夫人などが存在する程度である
恋愛には男性側の精神的優位が必要とされるのが通常である
古来、小説で描かれてきたものは
劣位男性の誇大な性的能力なのであるが
それはファンタジーに過ぎないことはよく分かる
現実には男性機能は時間とともに果てるものなのでやはりファンタジーでしかない
また男性が先に果てないと受精しない
現実には男性機能そのものが評価されることは少なく、DNAが評価される
物語の中では男性のDNAが女性から評価される場面は一切なく
男性機能の評価に偏っている
それはちょうど性風俗産業で女性をDNAで評価するのではなく女性機能だけで評価することの
鏡像である
男性の性的能力が問題になるのは男性の興味に従って描くからだろうと思う
男性の性的諸因子はおおむね固定的なものであるが
女性の性的諸因子は可変的である
可変的なものを過剰に慎重に選択しても意味はない
固定的なものならば慎重に選択する意味がある
ここから、男性は女性を慎重に選択しない
しかし、女性は男性を慎重に選択するという非対称が発生する
女教師の物語は、男性が女性を慎重に選択し、女性が男性を慎重に選択しないという
典型的な逆転が発生している

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