多様で柔軟な解釈の練習 文学

なぜ自分がこんな不幸に会わなければならないのかと
思うことはあるだろう。

しかしそれは現実に起こってしまった。

どうする?

考えてみれば、それは、人間の世の中で歴史上最初に起こったことではなさそうだ。

他の人はどのような解決しているのだろうかと考えてみる。

個別の事情はもちろん違うから参考になるだけであるが、
それでも、参考にすることはできる。

いろいろな話を聞けば、
なるほどいろいろな解釈が成立するものだと思う。
多くの人の話を聞いていて思うのは
実に多様な解釈が可能であるということである

可能であろう多様な解釈を考えてみること
それもそうだなあと感じてみること
そう考える人もいるだろうなあと思ってみること
そこまで行けば
困っている人間同士が連帯することができるのだと思う
現実に連絡を取り合うわけではないが心理的な連帯はできるのだ

文学という絵空事がしていることは
多様な世界解釈の例示である。
文学はそれ自体で感動するしおもしろいし、それで全部だと思う。
暇つぶしだといえば、それでいいし、充分だ。
しかし、現実的な効用で言うなら、
物事についての、自分以外の解釈を詳細に、
多くの場合美しく、知ることができるということだ。
川端康成とドストエフスキーと徒然草では
どう見ても世界が別様に見えていると感じられ、
作者の内部にある世界モデルは違っていると考えられる。
ドストエフスキーがその内部に抱いた世界モデルのせいで
どんなひどい人生だったかはいろいろに書かれている。
サイードでもいいし、ファン・ソギョンでもよい。
あるいは佐々木閑でも井筒俊彦、マハーバーラタでもルバイヤートでもいい、
多様な解釈が世界には確かにあるのだ。

多くを知ることは自分を相対化することだ。

世界を解釈する別の網の目つまり解釈システムを学習しようではないか。
もう一段柔軟になることができる。