「シズコさん」 佐野洋子著

フロイトは男だったから、母と息子のことしか分からなかったのだと
シズコさんは言うと香山リカさんが紹介している。

これは実際そうだと思う。
母子関係といっても、
母息子と
母娘ではずいぶん違うはずなのだ。

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紹介を続けると、

戦後、11歳の兄を病気で失った母は、徹底的に冷たく娘に当たり続ける。
「母は本当に兄の代わりに私に死んで欲しかったのだ」とまで思うのも無理はない。

著者を本当に苦しめたのは、
母の虐待ではなくて、
そういう母を好きになれない、自分への自責の念だ。

全財産をはたいて高級老人ホームに入居させたのは「母を金で捨てた」と、
著者はまた自分を責める。

母子関係の闇の深さ

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娘にとって、出来のいい兄がいるということは
まったくもって不利な状況である。

母にとって息子が王子様であることは明白で
恋をしてさえいる。

他人に対して自慢はしないが娘にならばいくらでも自慢をする。
母にとって娘はある種の自分の延長に過ぎない。
時に耳になって母の息子自慢を聞き続ける。
同時に母の夫愚痴を聞き続ける。

実際に悪い夫も多いのだが、
家庭でも立派な夫というものは少ないはずで、
妻から見ればほとんどはくだらない夫なのだ。
その口の捨て場所が娘になるのはよくある話で、
娘が父を軽蔑してさえいるものだ。

母にすれば遺伝子の関係ない夫はどんなに軽蔑してもいいのだが、
そして精神的に軽蔑すればするほど、
日常生活で衝突したときにも楽に自己弁護できるのだが、
娘はそうではない。

母の愚痴に同調しながら、
一方では、自分の遺伝子の半分は父由来なのだと思うと、
気持ちは引き裂かれてしまう。
考えてみれば自分の顔は父親に似ていると思ったりして、
気持ちが悪くなる。
本当は母親は自分のことも父親と同様に嫌っているのではないかと疑う。
そして娘はますます母親と一体化して意見の不一致のないように自分をゆがめてしまう。

そんな時間を過ごしているうちに自分が人の親になり、
不幸の再生産をしてしまう。
自分もまた息子に恋をして、
娘を夫への嫌悪の気持ちのゴミ箱に使ってしまう。

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母親の人生の真のパートナーは息子である。
父親の真のパートナーは実の母である。
娘の真のパートナーはその息子である。
母と娘はお互いにとって奇妙なものである。
財産も権力もなければほどほどの年で別れられる。
しかしそうは行かない場合があり、いつまでもくっついていることがある。
そうすると、微妙に腐敗臭が漂う。

このあたりは天皇家の例でも分かるのだが、
娘は母の苦悩の一番の理解者であり
一番の洗脳対象であり、
しかし結局、財産と権力の相続者ではないのである。
男と女は人間として平等なのに、
まったく平等ではないのである。
それは母が息子が好きだからだ。

母にとって娘は付属物でありおもちゃでありくずかごであり
自分が泣けば一緒に泣いてくれる共鳴管である。

父と娘は母を介在にした間接的関係のようである。
母と同じ事を娘がいい続けるので
父は絶望する。

娘が本当に人生を生き始めるためには、
息子を産むしかないのだ。
そこで真のパートナーが出現する。

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その真のパートナーを11歳でなくしてしまったとしたら、
その悲しみと愚痴と呪いと嘆きが
娘に押し寄せることは明白だ。
娘は心を閉ざして鈍感になるか、
ぎゅうぎゅうに感情を詰めこまれてアップダウンの激しい感情生活を送るかしかないのだろう。
母の涙の捨て場になるしかないのである。

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ここで
フロイトは男だったから
母と息子のことしか分からなかった
という言葉を見つめなおす

フロイトが女であっても、
母と息子のことしか分からなかったはずである

女は息子と関係し、
男は母と関係する。
それだけである。
そのほかに重要な関係はない。

すべての男には母がいるから問題はない
すべての女に息子がいるわけではないから
問題が発生する
特に出生数が少なくなっている現代では問題で、
さらに、皇室に見られるように、ある階級では、女性の出生割合が多くなっている印象もある。
母と娘はどのように関係したらいいか

憲法や民法は絵空事を決めているが、
それは現実ではない。

悲惨な関係という答えがあるだけだ

変形としては、男みたいな娘という存在の仕方もある
宝塚みたいな関係の仕方もある
そこにわずかな救いがある