マインドフルネス&アクセプタンス ACT

1.例としてマインドフルネス&アクセプタンスに関する文章を次にあげる。これで何が治り何が治らないか、各自で考えて欲しい。
2.苦しみとは何か?
マインドフルネス&アクセプタンスは原因療法ですから、苦しみや心の病の原因が何であるかを把握している必要があります。
私たちが感ずる苦しみには生命の苦しみ、恐怖(不安)の苦しみ、関係の苦しみの3つがあります。
生命の苦しみは母体に宿ってから死ぬまでの身体的な苦しみ、恐怖(不安)の苦しみは安全が脅かされる苦しみ、関係の苦しみは人間関係など相対的に生ずる苦しみです。
この中で生命の苦しみも恐怖の苦しみも自分の心の中で生ずることがわかりますが、一番わかりにくいのが関係の苦しみです。
私たちが家庭や学校や職場の人間関係で苦しみを感ずるとき、その原因は自分の外側にあると思っています。
たとえば自分の悪口を言う人がいれば、相手に悪口を言わないように要求したり、相手を避けようとします。
しかしその人を避けたとしても、ほかに悪口を言う人が現れればまた苦しくなります。
潜在的に苦しみを抱えながら、いつも人や環境から逃げ回っているわけです。
ところが同じように悪口を言われてもあまり気にならない人がいます。
それは苦しみの実体が悪口にあるのではなく、苦しみを感ずる側の心の中にあることを示唆しています。
悪口を言われて苦しいとき、自分の心の動きを観察していただくと、「自分の悪口を言わないで欲しい」という強い思い(自動思考/マインドトーク)があることに気がつきます。
その自分の思いと相手の悪口が、自分の心の中で戦っているのです。
その戦い(葛藤)が苦しみの実体で、心の中の戦いが自分の外側に広がって、相手と戦うようになります。
一方悪口が気にならない人は、「自分の悪口を言わないで欲しい」という思いが少ない人で、心の中で葛藤が少ないから苦しくないのです。
苦しむ人と苦しまない人の違いは、自分の外側に向かう思いが大きいか小さいかの違いであることがわかります。
私たちが関係の苦しみをなくそうとするとき、相手や環境を変えようとすれば戦いと苦しみが広がるだけです。
相手や環境は自分の思い通りになりませんから、相手に求める自分の思いをなくさなければ何も解決しないことがわかります。
3.思考の依存性
関係の苦しみは自分の外側に何かを求める思いによって生ずることがわかりました。
例えばいじめで「無視をする」という手段があります。
なぜ無視されるのが苦しいのかといえば、「仲間外れにしないで欲しい、自分を認めて欲しい」と求め続ける思いがあるからで、それがなければいくら無視されても何ともありません。
自分の心をよく観察していただくと、私たちの心は求める思いだらけなのです。
その求める思いによって、求めるものが不可欠になってしまうのが依存性です。
求めるものが人に対する何かであれば、「人のせい、人次第」という相手への依存性を高めて、「~してくれない」という所謂「くれない族」になります。
そのため不平不満が強く、自分の心はいつも人や社会に振り回されて、それが心の病の原因になります。
求める思いはモノやコトへの依存も深め、そのため経済的身体的に支障をきたすものが、「依存症」として定義されます。
依存性は得られても得られても、際限なく何かを求め続けて、求めるものに依存します。
なぜ際限がないのかというと、求めるものより求める思いが先にあるからで、求めるものが得られても求める思いは充足することがないからです。
依存性の求める思いは、自分よりも弱い人に対して支配的になり、押し付け、言いがかり、言葉の暴力、身体的暴力へとエスカレートしてゆきます。
依存性による暴力(攻撃性)は自分の外側に向かって攻撃的であると同時に、自分の内側にも向かって、自分の被害者意識を拡大します。
自分の殻、人嫌い、被害妄想、抑うつなどが被害者意識です。
依存性が強いということは、自立性や創造性などの自己が失われているということでもあります。
そのため心の自由や創造性が失われて、特定の思考パターンに陥りやすく、そこからなかなか抜け出せなくなります。
それが同じことを繰り返す嗜癖(しへき)として表れます。
依存性はそのように関係のストレスや悩みや苦しみを生み、依存症や心の病を生み、暴力や戦争や犯罪を生んでゆきます。
4.思考の二元性
関係の苦しみには、依存性の苦しみのほかに二元性の苦しみがあります。
私たちは小さいころから社会生活の中で、人と自分を比較しながら育てられます。
学校では成績順に評価され、スポーツも優劣を競って比較の中で自分の力を伸ばそうとします。
そのように自分が成長する動機は自分の内発的なものではなく、人より優越を感じたいという比較によるものでした。
しかし優越の喜びには劣等の苦しみがあります。
それは優越の人と劣等の人が別々に存在するのではなくて、優越を感じる人が自分の劣等の部分に苦しむのです。
優越感と劣等感は表裏一体の感情であり、優越感のある人が劣等感に苦しみ、優越感のない人が劣等感にも苦しみません。
つまり優劣の二元性が苦しみなのであって、優劣どちらにも偏らない心が苦しみのない心なのです。
優劣の二元性のほかにも善悪の二元性があります。
私たちは自分に都合のよいものを善として歓迎し、自分に都合の悪いものを悪として排斥します。
ところが私たちの心の中には善も悪も混沌としています。
たとえば人を殺せば殺人という大悪ですが、私たちの心の中には「殺してやる!」と言わんばかりの憎しみが鬱積しています。
だから正義感で社会の悪を糾弾すればするほど、自分の中の善が自分の中の悪と葛藤して、それが苦しみになるのです。
人を善悪で裁いて許さなければ、その裁きは自分も裁いて許しません。
自分を責めたり否定して苦しむ人は、人を善悪で裁くからです。
善悪を峻別する二元性が苦しみなのであり、善悪に偏らない心が苦しみのない心です。
このような二元性はほかにもあって、苦楽もその1つです。
苦があるから楽がある、楽を求め
るから苦しくなるわけで、そこにACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)のルーツがあります。
苦しみを否定せずにそのまま認め受け容れるようになったとき、つまり楽になろうと思わなくなったとき、苦しみは自然と消滅してゆきます。
5.心の3要素
「マインドフルネス&アクセプタンス」を理解するために必要な心の要素は、「感情」と「思考」と「自己(存在)」の3つです。
感情は「喜怒哀楽」で表現されますが、私たちは恐怖や関係の苦しみなどを感情として体験しようとするとき、逃げたり我慢することによって感情の体験が中断されて、未消化の感情が残されてしまいます。
それはなぜかというと、私たちに善悪を仕分けする自動思考(マインドトーク)が働いて、それによって嫌な感情が否定されるからです。
テーマに沿って自分の意思で何かを思索する以外、ほとんどの思考は自動的に起こっています。
もし自分が考えていると思うなら、是非思考を止めてみてください。
自分で思考を止められないのは、思考が勝手に考えているからで、苦しみはすべて自動思考によるものです。
蓄積された感情は水中に沈められた風船のように、事あるごとに浮かび上がっては自動思考を誘発します。
それでも逃げたり我慢し続けるので、感情の風船はどんどん膨らんで蓄積してゆきます。
私たちが突然怒りの衝動を感じたり、自分ではどうしようもないトラウマを抱えてしまうのは、そのような蓄積された感情があるからです。
蓄積された感情は幼少期に親子関係で生じたものが核になっていて、それが社会生活の中で雪だるまのように膨らんでいます。
親は一生懸命子供のために尽くすのですが、小さな子供の感じ方がわからないため、心ならずも子供の心を傷つけてしまいます。
子供は楽しいことは満喫して忘れますが、嫌な感情は心に蓄積したまま、その感情によってその後の人生を支配されます。
私たちが感情と思考をこのように見つめるとき、その見つめる心の存在が浮かび上がってきます。
それが3つ目の心の要素である自己です。
自己は「いまここ」の現在進行形の中にあって、そこには自分という分離した概念はありません。
それは無我夢中の「無我」の状態で、時間もありません。
私たちは時々あっという間に時間が過ぎ去る集中した状態になることがありますが、それが無我であり、そこに自己があります。
自己には認識、意思、自立、創造、愛、喜びなどがあって、私たちの心の核になっています。
6.心の病とは
心の病は突然起きるわけではありません。
それは悩み苦しみの延長上にあって、苦しみが臨界を超えて医療に託されたとき、初めて心の病として診断されます。
私たちに日常起こっている苦しみと心の病は連続しているのです。
心の病では思考に依存性の嗜癖を持っていて、思考のパターンが偏ったまま同じ思考を繰り返しています。
その思考の癖が不安感(恐怖感)や心身症状に現れると神経症になります。
また苦しみから生ずるストレスや恐怖感や否定的な感情は、被害性の抑うつ感情を蓄積して、鬱病の原因になります。
心の病がいろんな症状を合併するのは、このように同じ原因がその人の性格や進行によって変化して表れるからで、複数の病気が重なっているわけではありません。
心の病の原因は、今日では脳内物質や脳構造の異変とされますが、本当の原因は偏った感情と思考の連鎖によるもので、脳内物質や脳構造の異変は原因ではなく結果の一つなのです。
薬物は結果を錯乱しているだけなので、一時的に効果はあっても、根本的には治ることはありません。
ですから緊急の対応としては有効ですが、長期的に服用すれば、生理的依存性によって常用化し、副作用の弊害が出てきます。 
また根本的な治療法ではありませんから、治ったと思ってもいずれ再発することになります。
心の病は脳というハードウェアのトラブルではなくて、心というソフトウェアのトラブルなのです。 
ですから自分の心を変革する以外に、根本的に治る方法はありません。
7.鬱病の療法
鬱病に苦しむ人がとても多いので、ここでは鬱病を想定して療法の手順を書きます。
心の病は原因がほとんど同じですから、どんな病気も基本的には同じ考え方で対応しますが、人によって何を優先するかは違います。
これは医療行為ではありませんので、医師の診断、投薬を受けた上で、医療と並行してやってください。
鬱病を治してゆく上で最初に注意することは、苦し紛れに現状を変えようとしない、つまり決して治そうとしないことです。
鬱病の原因は心の中の葛藤にあって、症状はその結果に過ぎません。
その結果を操作して鬱病を治そうと思っても、葛藤が大きくなるだけで、鬱病は悪化する一方なのです。
逃げること、我慢すること、変えようとする(戦う)ことの3つの回避行動はすべて自動思考によるもので、これさえなくなれば自然に治ります。
鬱病はあるがままを受け容れて、過去、現在、未来と続く時間軸の先に期待や目標を持ってはなりません。
これがACTの基本的な考え方です。
次に鬱病の原因である攻撃性の抑圧された感情を解放してゆきます。
攻撃性の感情は、過去人間関係で生じた恨みや怒りの感情を避けたり我慢したため、それが未消化のまま蓄積されてしまったものです。
相手ごとにトラブルのあったシーンを思い出して、その時湧き上がる感情をあるがまま体験してゆきます。
普通はカウンセリングで行いますが、自分でやる場合は感情をそのまま言葉にしたり、ノートに書きなぐります。
感情を体験するというのは、どんな気持ちも否定しぜに感情を自由に表現しながらそこに留まることです。
この方法はACTの応用ですが、段階的に効果を検証できますので、今後心理療法の主流になってゆくと思われます。
苦しみは思考と感情の連鎖によるものですが、ACTは感情への働きかけを目的にして行われ、それと両輪の関係にあるマインドフルネス法は、思考に働きかけて思考に振り回されない自己をめざしてゆきます。
マインドフルネス法では瞑想を通して「いまここ」の現在進行形に傾注します。
さらに食べる、歩く、仕事をするといった日常生活の中で感じる生き方を目ざしてゆきます。
それを習慣化することで自己が強化され、感情と思考に振り回されないようになります。
自己を強化する方法として感謝法も有効で、これは簡単ですからマインドフルネス法の1つとして実施したらよいです。
8.ACTによる感情の浄化法
ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)は第3世代の認知行動療法に属する新しい心理療法です。 
その起源は仏教など東洋の自然思想にあって、森田療法の要素と同じものです。 
その基本的な考え方は従来の療法とは正反対で、快さを求めるのではなく、苦しさを受け容れてゆくというものです。 
これは先入観からは思いつかない方法ですが、実際にやってみると、これまでの方法がいかに逆のことをやっていたかがわかってきます。 
私たちは生きてゆく中で精神的な苦しみを感じ、それを回避しようと努力します。 
しかしその回避行動が心の中で葛藤となって、逆に苦しみを深めています。 
回避すればするほど、自分の中の戦いは激しくなり、それが自分の外側(周囲との関係)にも広がってゆきます。 
長い目でよくなるには、苦しみを回避するのではなく、すべての状況をあるがまま受け容れることです。 
自分の身の回りに起こることはすべて、苦しみも怒りも恐怖も、それを避けようとするのではなく積極的に受け容れてゆく、その結果として苦しみがなくなってゆく。・・・それがACTの基本的な考え方です。 
ACTによる感情の浄化法は、それをトラウマや鬱病などの原因療法として応用するものです。 
そのやり方は過去に嫌なことがあった場面を思い出して、湧き上がる感情をあるがまま受け容れてゆきます。 
それを相手単位、場面単位で感情が湧かなくなるまで繰り返します。
それによってこれまで自分が振り回されてきた感情が短期間に消滅して、化石のような感情の湧かない記憶になります。
ACTによる感情の浄化法では、その効果を実感しながら進めてゆくことができます。
多くの場合、その感情は成育時の親子関係において形成され、それが学校生活や社会生活の中で雪だるまのように膨らんでいます。 
蓄積した感情は抑えようとしても抑えることができず、それが臨界を超えると心や体の病として症状が表れてきます。
たとえば鬱病は攻撃的な感情、否定的な感情が抑うつ感情になっています。
トラウマなどの心の傷もこの方法で解決することができます。
9.マインドフルネス/失われた自己を取り戻す
私たちの心は、感覚と感情からの刺激によって、いつも自動思考(マインドトーク)が誘発されています。
心の病は、自動思考と感情がスパイラル状に連鎖して、自己がそれに引き込まれてしまった、いわば暴走状態になっています。
失われた自己を取り戻して思考と感情から自由になり、さらに思考を自在にコントロールするためのトレーニングとしてマインドフルネス法(瞑想)が用いられます。
瞑想では、「いまここ」の現在進行形に注意を向けながら、思考と感情を客観視します。
私たちの思考は過去から未来につながる時間軸上にありますが、自己は瞬間瞬間の現在進行形にあって、両者は別々の心の要素なのです。
私たちは連続的に行われる呼吸に意識を向けることによって、「いまここ」の自己にあり続けることができます。
そして湧き上がる思考や感情は、そのまま捉われずに放置して、私たちは呼吸に意識を向け続けます。
瞑想には座って行う座禅がありますが、それ以外にも歩くこと、食べること、踊ること、仕事をすることなど、生活のあらゆることに応用が可能で、生き方のすべてを瞑想にすることができます。
たとえば草取りでも掃除でも炊事洗濯でもスポーツでも、行動しながら目で見、音を聞き、身体の感触を全身で感じます。
それは瞑想と同じ状態で、感じているとき思考は止まり、思考が働いているときは感じることが止まります。
瞑想が進むと思考のない生き方ができるようになりますが、それがどんなものかを想像してみます。
私たちが街で車を見るとき、車の色は何色?とか、どこのメーカーの何の車種?とか、かっこいい!などと無条件に言語化が行われていることに気がつくでしょう。
この言語化によって思考が発生し、実際には見るものを見ていません。
思考のない生き方は、その車を目に入る光のまま感じています。
思考のない状態で、自分の意思で思考を使うことができれば、極めて高速に思考の切り替えができ、明晰な頭脳と高い創造力を発揮することができます。
ここでのテーマは思考をなくすことではなくて自己を取り戻すことですが、それは同時に考えることから感じることへの移行、過去、現在、未来の時間軸から「いまここ」への移行、関係の世界から自分の内面世界への移行が行われます。
瞑想は指導を受けなければなりませんが、その要素は「マインドフルネス」として第3世代の認知行動療法になっていますので、事前にそれを学ばれると効果的に瞑想を習得できます。
10.感謝法
「いまここ」の現在進行形には大切な心が働いていることがわかりました。
私たちは「いまここ」に全力を尽くし、「いまここ」に楽しさを感じ、「いまここ」に豊かさを感じることができれば、将来にも全力を尽くし楽しく豊かな自分がいます。
どこか将来に幸せがあると思っている人は、将来になってももっと先に幸せがあると思っている自分がいるだけです。
幸せは「いまここ」の現在進行形にしかないことがわかるでしょう。
その「いまここ」を喜びに満たす方法が感謝する習慣です。
感謝というのはおざなりにお礼を言うことではありません。
本当の感謝は喜びの表現であり、その表現によって周りの人にも喜びが伝わってゆくことです。
感謝することによって喜びの感動が起こり、自己がどんどん活性化してゆきます。
苦しみの深い人は共通して、感謝することが少ないことに気がつくはずです。
その感謝を習慣化する方法が感謝法です。
感謝法の1つは1日10回以上「ありがとう」という言葉を使います。
使うと
いうのはありがたいと感じなければ使えませんから、この方法は同時に「ありがた探し」の意味合いがあります。
これを何年か続けるうちに、感謝する習慣が身についてゆきます。
もう一つ短期間で感謝する習慣を身につける方法として、毎日49分づつ時間を取って、10万回を目標に「ありがとう」を唱えます。
これはありがたくなくても声を出して唱えるだけで結構です。
声の響きが直接脳に影響を与えて、短期間で感謝する習慣を身につけることができます。
感謝する習慣が身につくと、顔がいつもほころぶようになって、無条件で幸せを感じます。