ベルクソン 現代思想としてのマザー・テレサ 曼荼羅

 ベルクソン―〈あいだ〉の哲学の視点から 篠原資明著 (新赤版1040)
  
   現代思想としてのマザー・テレサ――ベルクソン再発見

 マザー・テレサとベルクソン―― 一体どういう関係があるのだろうか? そう思われる方が多いと思います。これは、何を隠そう、この本をつくるきっかけになった篠原先生のエッセイのタイトルです。

 それは、社会や宗教の閉じたあり方を打ち破り、「愛の衝動」を人類全体へ押し広げようとした現代の聖女マザー・テレサの活動はどこからくるのか。このたいへん興味ぶかい問題を、哲学者ベルクソンの思索をたどりながら、解き明かしたものでしたが、とても刺激に満ちたものでした。

 そのエッセイをもとに、5年をかけて書き下ろされたこの本は、人間の生成と存在の問題について根本的な問題提起を行なったベルクソンの思索の軌跡を、著者の〈あいだ〉哲学の視点から読み解きながら、ベルクソン自身も大きなテーマとしていた、人間はどこから来て、何であり、どこへ行くのかという哲学の最重要問題に取りくんだ渾身の一冊です。

(新書編集部 平田賢一)
    
  ■著者からのメッセージ

 われわれはどこから来たのか、われわれは何であるのか、われわれはどこへ行くのか。この問いは、ゴーギャン(1848-1903)による名画のタイトルとしても知られる。われわれは何であるのか、を問おうとすれば、われわれはどこから来たのかと、問わざるをえない。そうしてはじめて、われわれはどこへ行くかについても、問うことができる。いうまでもなく、この問いは、われわれの存在の根本にかかわる問いなのだ。にもかかわらず、この問いに対して、はたして今日、まともに答えてくれる哲学者が、どれだけいるだろうか。いや、今日とはいうまい。歴史上、いったいどれだけの哲学者が答えてくれたことだろう。

 この問いが、しだいに、まともに取りあげられなくなった理由は、大きくいって二つあるだろう。ひとつは、この問いが、あまりにも宗教と結びついていたからである。宗教と結びつくというだけで、哲学者が距離を置いてしまう、そんな風潮が、いつのまにかできあがってしまったのだ。もうひとつの理由として、簡単に答えの出そうのない問題は、最初から遠ざけるという傾向も大きくあずかっていよう。

 しかし、いつまでも宗教を毛嫌いし、神といえば退いてしまうばかりでよいのだろうか。考えてみれば、答えの出そうのない問題については、宗教が答えてくれていたし、哲学者は別として、多くの人々にとっては、いまでもそうだろう。確かに、答えようのない問いかけについては、沈黙すべきかもしれない。しかし、その問いが、われわれの存在の根本にかかわるものだとすれば、なんとかして、その問いに適切にアプローチできるよう工夫すべきではないだろうか。極言するなら、答えの出そうのない問題だからこそ、沈黙すべきではないのである。

(本書「はじめに」より)   
 
  ■目次
 はじめに
  
  I 〈あいだ〉と生成――われわれはどこから来たのか  
  1 存在と無の〈あいだ〉
2 過去と現在の〈あいだ〉
3 異交通的生成
    
  II 進化と痕跡――われわれは何であるのか  
  1 生物学と実証的形而上学
2 分岐と痕跡
3 知性と横断
4 開いた動対応へ
    
  III 神秘系と機械系――われわれはどこへ行くのか  
  1 神仏への道
2 開いた社会と密厳浄土
3 マンダラと二重狂乱
    
    おわりに
  文献案内
  アンリ・ベルクソン略年譜

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ベルクソン、マザー・テレサ、曼荼羅 進化 神仏。
なるほど。このような発想もあるものか。

「愛の衝動」

という。東海テレビの昼ドラみたいだ。