疾病利得の話 新型人間の新型うつ病

たいていは人間は病気になりたくない

虫歯になっただけでとても憂うつになる
それが通常であるが
中には自分で病気になりたいと思う(多くは無意識のレベルで)人がいて
その場合には疾病利得の問題について考えることになる
典型的な場合でいえば
交通事故のあとの後遺症をどの程度認定するかの問題があり
ここには疾病利得の問題が絡んでいる
これは制度との相関でもある
極端な話、虫歯が一本できたら、2000万円支給ということになったら
たぶん虫歯の何本かはむしろ歓迎かもしれないのだ
そこで制度を制定する側は、
どの程度ならば、基本的生活権を保障しつつ、疾病利得の問題が起こらないか、
ぎりぎりの線を考えることになる
多くの人の中には特殊な人がいるのは仕方がない
しかし誰かが書いていたが 
病気休暇をもらって平気でハワイに旅行に行く人がいるという話
その場合は子どもにも学校を休ませて一緒に行ったりもする
それは理解できないとその人は書いていた
従来の価値観でいえば、
その場合には疾病利得という短期の利益はあるけれど
人生の長期利得の点でマイナスであるから
選択しないはずだと考えられている
しかし価値観が違う人がいれば
人生利得よりも疾病利得を選択する場合もあると思われる
そんな人が多くなれば
その価値観に対応した制度を制定しなければならなくなる
戦争の頃は戦争神経症と呼ばれるものがあって
ほんとうの病気なのか疾病利得を目当てにしたものなのか鑑別する必要があった
昔の映画で、どうしたら判定できますかねといわれて、
あるお医者さんが、一つだけ方法がある、蛇のたくさん入った洞穴に突き落とすことだ、
本当に足が麻痺しているなら歩けない、うそならすたすた歩くだろう、
と言っていた
講談とか落語で、左甚五郎が仙台の旅館に泊まり、
その主人の話を聞いて心を動かし、ネズミを彫る話がある。
その主人は事故で腰が立たないのであるが、
ある日、緊急事態の時に思わず立ち上がった。
落語では2年前から立ち上がることができていたのだけれど
そうは思わなかったので立ってみなかったのだと
解説を加えている。
これなどは事故の後の神経症である。
いま日本では当面戦争神経症の問題を考える必要はないが
アメリカでは戦闘後のPTSDの問題がいろいろに議論されている
アメリカで暮らしている人の感想を聞くと
がんばる人はアメリカで仕事をしたほうが報われると言っていた
がんばりたくない人は日本にいたほうがいいという
そして年をとったら日本に帰ったほうが楽だともいっていた
個人の感想だからそれで全部だというものではないと思うが
こうしてみると、個人の頭の中にある利益の天秤がどのように設定されているかの問題のようだ
大企業のエリートコースに入れば
病気の時の福利厚生は手厚いがだいたいの人は絶対使いたくないと思っている
損をするからだ
しかしまれにその制度を全面的に利用する人がいて
周りを驚かす
周りも競争相手がひとりいなくなったくらいの認識でその後はあまり相手にはしない
制度があって規則が文章で決められているとしても運用するのは人間であるから
そこは弾力もあるしハードルもある
その微調整の部分をうまくすることで制度の問題が表面化しないように運用している
そうはいいつつも
世の中は変わってきたと思わせられる話も聞く
それが新しい価値観を持った新しい人間の新しい病気ということなのだろう
新型うつ病というのはそのあたりとの関連もあるようだ
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こうしてみてくると、
本当は歩けるのに歩けないと言い張り信じてもいてかつ実際に歩けない神経症と
パラレルな関係で
本当はうつ病ではないのにうつ病であると言い張り信じていてかつ実際にうつ病の諸症状を呈する
神経症があるのだろうと思う。
詐病ではない。
精神病と神経症という場合の神経症でもない。
ここは用語が混乱しているが、
「疾病利得因性」ということである。
精神障害に対して心因性というのも別の意味で使うことが多いので困るので、
あからさまに「疾病利得因性」という言葉にしてみた。
詐病でもないし、嘘つきでもないし、仮病でもない。
身体における心身症の存在を考えて、同じメカニズムを精神領域に拡大すると
どうなるかを考えてみたらどうだろう。
精神のメカニズムが精神の病を引き起こしている場合である。
ここまでくると
心の問題なんだから薬なんか効くはずがないという
世間の人の一部にある理解とつながるようでもある。
心の問題とか精神的問題といっても、
その裏付けになる物質的基盤があるはずで、
つまり生理学に対応する解剖学があるはずで、
薬はプラスになるかマイナスになるかは別にして効くに決まっているだろうが
それでもここでいう「疾病利得因性」うつ病の場合は、薬なんか飲みたくないというに決まっているだろう。
あるいは薬を持って帰っても、使わないだろう。