うぬぼれ屋さんはかわいい

うぬぼれ屋とつきあうのは
あまり歓迎ではないが
それなりに楽しい面もある

うぬぼれ屋はある意味で分かりやすい
予想しやすいのでつきあいやすい
褒めやすいし
いじめやすい

きれいさんを褒めるのは簡単である
スポーツの得意な人も頭のいい人も褒めるのは簡単である

分かりやすい部分について褒めれば
その人は誰よりもそのことを得意に思っているのだから
その通りに喜んでくれるので
まことに安上がりな人たちなのである

何も得意のない人を褒めるには技術が必要である
心理学も多少学んだ方が役に立つかもしれない
しかしおおむね難しいしその人についてよく知るまでに時間がかかる

うぬぼれ屋を少し褒めればどこまでも上がっていくし
うぬぼれ屋を少しけなせばどこまでもへこんでしまう
それはおもしろいくらいで
それくらい彼らは「弱い」のである
強いところがあるから弱くなってしまっているのだ

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野球をやっていてもエースだと威張っていられるのは少しの間で
甲子園で勝てるのかといえば簡単ではない

スポーツや知能や美貌については
うぬぼれ屋がいつまでもうぬぼれ屋ではいられないように
きちんとうぬぼれをへし折る制度ができあがっている

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よく分からないのはたとえば
どんな例がいいのか、たとえばオタクの世界であるが、
はたしてオタクは自分のオタクをどのくらい誇るものだろうか
そしてある時点で甲子園のように自分の客観的に位置が確認できて
うぬぼれから醒めるときがくるのだろうか

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ひそかなうぬぼれを秘めている人はたくさんいるものだ

たとえば性的な領域については長い間うぬぼれの根源であったり劣等感の根源であったりしてきた
性的な体験については客観的に比較しようがないことが理由だったのだが
現状のネット社会のようなレベルで性的な誇大な表現が垂れ流しになると
ほとんどすべての人が劣等感を抱くのではないかと思う

あれは演じているのだとか整形しているのだとか演出なのだと
頭に入っていればいいのだけれど

それに近年のように国境を越えて人種を超えてつきあうようになると
みんな違ってみんないいとは
なかなかならず
昔はいろいろな点で、理由のない優越感とか理由のない劣等感だったものが
次第にはっきり理由のある劣等感だと認めなければならないものもあるので
うぬぼれ屋にとっては
かなりつらいこともある