混沌に表現を与えることが精神療法である 時計回りでも反時計回りでもない表現

精神療法の一つの側面を表現すれば

混沌に表現を与えることである
言葉が代表的で便利であるが絵でもよいし音楽でも良い
言葉による表現は理論でもよいが
しばしば「たとえ」である
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フォーミュレーションという言葉を
本来に戻って考えると
フォーム、つまり形を与えるということで
表現を与えることである
形式を与えることと言っても良い
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内容と表現・形式との対比で語られることが多いのだが
対比というよりは
内容をよく理解するために
表現する
表現が内容を深める
そこのところに『運動』がある
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物体があって
それを写真に撮る
そのばあい写り方はひと通りではない
どのように撮るかで
物体も違ってくる
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表現は患者の内部にあることもあり、それもよい
表現は治療者の内部に発生することもあり、それもよい
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患者は理解していないが治療者の内部では理解が発生したという場合もある
それはスタートとしてはまことに良いものだと思う
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Right Brain vs. Left Brain Test

Some people say that the way in which you originally view her 
as spinning correlates to whether you are right or left brained.

THE Right Brain vs Left Brain test … do you see the dancer turning clockwise or anti-clockwise?

If clockwise, then you use more of the right side of the brain and vice versa.

Most of us would see the dancer turning anti-clockwise 

though you can try to focus and change the direction; see if you can do it.

時計回りに回っているのか、反時計回りに回っているのか、それも理解する側の要因が関わっている

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混沌に表現を与えるという場合

彼女は時計回りに回っているか、反時計回りに回っているかと、「時計回り」と

いう不正確・不適切な言葉で言葉で表現している限り、「彼女」に辿りつけない

見るものにどう見えるかとは別に彼女を理解したいのならば別の表現が適切なのだ
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本当の彼女は「ない」

従って、たどり着くべき表現もない、

観察者との相互作用に中で生成される観測結果があるだけだとの言い方はある

それでもいいが
それでは彼女が彼女を見たとき発生する自己認識についてはどうしたらいいだろう
一つの脳が別の一つの脳を理解する、それと同じモードで
自分の脳が自分の脳を理解するのだろうか
その理解のしかたを他の脳が『訂正』したりするのだろうか
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というわけで
彼女は回り続ける

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フォーミュレーションは
極端に一面的に言えば理論の当てはめである
ナラティブの要素があるのだと言い張るとしても
やはり脳が物事を理解するには枠組みがあるのである
ちょっと考えると有害であると思われるが
案外そうでもない
混沌の中で途方にくれている患者さんの前で
治療者は『分かる』のである
その理論が精神分析各派であっても、認知療法でも、前世の因縁でも、聖なる恩寵でも、
禅でも
とりあえずはかまわない
治療者の内部に確信が生まれることが大切らしい
その点で過度に頭のいい治療者は『確信』を相対化してしまうので不利である
適度に頭の悪い人のほうが確信を抱くには適している
その確信が患者の混沌に秩序と理解と平穏をもたらすことがある
それが本当にいいことなのどうかは分からない

頭が悪いから
これは分かって
これは分からない
となるはずで
その場合に一つを選んでそれを確信することができる

しかしながらその確信が
出発点となることがある
来談者中心と看板をかけて
それを確信していれば
それはそれでよい出発点となる

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他人の脳に発生している混沌をどのように表現できるのか
大変興味深いチャレンジである

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(追記)
混沌に表現を与えて何のメリットがあるのだろう
理解できるとか納得するとかいうのだけれど何のメリットがあるのだろう
理解が深くなるのか、あるいは情報を捨てているのか、どちらとも言える
パラダイム・チェンジが起こると、捨てられていた情報が復活する
その人の脳が処理可能な範囲まで情報を捨てること、それが理解するということなのかもしれない
分かるところまでレベルを下げるのは公文式みたいだ
どうせ分かるレベルでしか分からない
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で、そんなふうに理解して、どうする?

脳が脳である限り、『理解』したいと思うのは無理もない
そのための脳なのだろう
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困っている症状に『意味』を与える
症状に『表現』を与える
そのことにも多重の意味がある(というように、メタレベルでの意味付けをしたがる、意味を与える行為に意味を与える)
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昔の話、ヒステリーに性的欲求不満という意味を与えた
いまではもう深淵でもないし秘密でもないのだろうが
当時としてはなにか「理解の新しい地平を切り開いた」気分であったに違いない
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理屈ははっきりしないがとにかく症状が治るという現象があったとして
それを理解したくなる