未生怨(阿闍世コンプレックス)

昔、インドの王舎城というところに、頻婆娑羅・ピンラシャワ王とその妃の韋提希・イダイケ夫人が住んでいました。この王妃には子供はなく、このまま容色が衰えていき夫に愛人ができること、自分の立場を失うことなどを恐れて、夫の寵愛を失わないために何とか子供が欲しいと願ってきました。そこで夫にお願いして、予言者に見てもらうことにしました。
 すると予言者は、「山の仙人が三年たつと死に、あなたの子供に生まれ変わって、あなたのお腹に宿るだろう」といったんです。ところが、その三年を待てなかったんです。それで、その仙人が死ねば生まれ変わって子供になるというのですから、家来にその仙人を殺させてしまいます。そのときその仙人が「この恨みは忘れない。俺は生まれ変わったときにお前の息子になるけれども、お前の息子になってお前の夫を殺してやる」といって息絶えたんです。そして韋提希夫人はすぐ身ごもります。
 韋提希夫人にしてみると、生まれる子供は夫が殺した人間ですし、仙人の呪いも恐ろしいですから、今度はその子供を堕ろそうとしたり、産むときに高い塔から生み落として殺そうとしたりします。しかし、その子「阿闍世・アジャセ」は、子殺しの運命をなんとか生き延びて青年になるんです。
 阿闍世という言葉を日本語に訳すと未生怨、まだ生まれない前から抱いている怨みという意味になります。つまり阿闍世という子供は、産まれる前から父母に対して怨みを抱いている、それは、お母さんは自分の権力を守るために子供が欲しいと思い、次にその子が災いになると思ったら殺そうとしたからです。つまり、子供を、愛によってではなく自分の都合で産もうとして、その挙げ句に殺そうとしている、そういう因縁を抱いて生まれてきているんです。そして、阿闍世ならずとも人間の子供が親に対して抱いている非常に根源的な怨みが、この末生怨だというんです。
 子供がこれをどういう言葉でいうかというと、「お母さんとお父さんは、なぜ僕を産んだのか」。この末生怨は赤ん坊のときにはあまり意識されていませんが、思春期、早くて中学二、三年生から高校生ぐらいのときに、これが深刻な問題になってきます。いわゆる家庭内暴力や不登校などの問題を起こす子供が、最後にこういう恨みを語ることがあります。「どうして僕を産んだのか、結局はお父さん、お母さんの都合や欲望で産んだんじゃないか。だから産んだ以上はお前たちが責任を取れ」。こういうふうに未生怨にとりつかれて親を困らせることがあります。
 この未生怨には、自分というものの根源はいったい何かという非常に深い意味があります。なぜ自分は、いま、この親の子として、このときに、ここに生まれたんだろう、どうして他の自分にはなれなかったのかという、生まれ育ちに対する恨みの意味も込められています。
 子殺しの運命をくぐり抜けて青年になった阿闍世は、自分の出生の由来を聞いて、母親を恨み、殺そうとするんです。どうして自分をそういうふうにしたかと。それをまわりに諫められて、阿闍世は今度は罪の意識で流注という皮膚病にかかって、たいへん苦しみ、最後にお釈迦様に救われます。
 結局、親子というものは、一方では子供はもちろん可愛いんだけれど、一方では自分たちが生きるためなどのいろんな事情で、子供を捨てたり邪魔にしたりいじめたりする気持ちも人間だからあるということです。そういう親の子供に対しての人間的な愛と憎しみを、思春期になると子供はだんだんわかってくるけれども、小さいときは、僕のお父さん、お母さんが世界でいちばんいいと思っているということです。