映画 バットマン ダークナイト-1

映画 バットマン ダークナイト案外なことに深いんだこれが
絶対悪ジョーカー
ハーベイ・デントの表裏、善悪
監督クリストファー・ノーラン

バットマン ダークナイト  〜この映画は本気である〜

http://www.youtube.com/watch?v=X1ORr64RtCc
アトム、フラッシュ、ワンダーウーマン、グリーンランタン、グリーンアロー、 
キャプテンマーベル、プラスティックマン、レックス・ルーサー、ブレイアニック などについて予備知識があると楽しめるらしい一種のメタレベルのお話だ
事前にお勉強すればいいだけなので検索して調べておけばよいでしょう
目玉はスーパーマンとバットマンの二大対決
【あらすじ】(『ダークナイト・リターンズ』)
ゴッサムシティから暗黒の騎士バットマンが消えて10年、引退した55歳の大富豪ブルース・ウェインは、ありあまる情熱を抱えながらも、一市民として平穏な生活を送っていた。だが、エスカレートする犯罪行為によって荒廃していく街の姿に、ブルースはついに復活を決意する。かつての仇敵も犯罪活動を再開し、再び戦いの中に身を投じたバットマンだったが、その活躍は以前のようには世間から受けいれてもらえなかった。 政府の管理下にないスーパーヒーローの存在を認めない米国政府は、ついに対バットマンの切札として一人の戦士を送り込む。それは、米国政府の指揮下に下り、「政府のイヌ」と化したかつてのヒーロー、スーパーマンだった……。
ーーーそのなかでこんな場面があり

ダークナイト:ジョーカーの取り調べシーン(日本語字幕)

http://www.youtube.com/watch?v=z6JPeoWi-34&feature=related
実にインスピレーションを刺激される
概略こんな感じなんですね一般に人生は
このタイプのミスコミュニケーションを反復しているわけですミスコミュニケーションを気にすることもなくなっているほど日常的
そうでないのが例外きちんとキャッチボールできたらそれは稀有なこと
ーーーヒース・レジャーはこれが最後で死んでしまった
ーーーその後、こんな素晴らしいページを見つけた 採録 http://ameque.cool.ne.jp/dc/batman/dkreview.htm

ダークナイト レビュー

【総評】 一言で言うならば、完成度の高い映画であり、打ちのめされるような衝撃力を持った傑作である。もちろん暗いし重いし、観終わった後で爽快感を感じるどころか逆に疲労感をおぼえるような作品なのだが、それでも「良い映画だった」と言わしめるパワーを秘めている。2時間半という長さにもかかわらず、冒頭からクライマックスまで一気に見せる監督の手腕は見事である。たたみかけるような事件の連続、異なる場所の出来事を交互に見せるカット構成、「○○と思わせておいて実は△△」的なミスディレクションといった演出の全てが計算されつくしたものであり、そのプロの技にはただただ脱帽である。 「アメコミ映画だと思っていると肩透かしをくらう」とか「このテーマを扱うのなら別のジャンルでもできたはず」といった意見もあるが、ちょっと的外れだろう。黒澤明監督の作品が時代劇という枠組みを使って人間そのものを描いていたように、『ダークナイト』もバットマンという枠組みを使って人間を描こうとした作品というだけの話である。 『ダークナイト』は『スーパーマン』(1978)『バットマン』(1989)『スパイダーマン』(2002)と同様に、一つのスタンダードを確立させたインスタント・クラシックであり、今後作られるであろう同ジャンルの作品にとって試金石となることは間違いない。 【ブルースの正義】   一つの悪徳を行使しなくては、政権の存亡にかかわる容易ならざるばあいには、悪徳の評判を受けることを恐れてはならない。
   《マキャヴェリ君主論』第15章》
 バットマン(ブルース・ウェイン)にとって正義とは何だろう? バットマンが悪と戦う理由は、この世界にはびこる不正をなくし、平和な社会を築くためである。その最終目標そのものは立派であり非のうちどころはない。では、それを達成するための手段はどうだろうか? バットマンが数多くの違法行為に手を染めていることは明らかである。暴行、過剰防衛、武器の携帯、改造車両の無許可運転、住居不法侵入、器物破損、不法な尋問など、数え上げればきりがないだろう。映画『ダークナイト』の冒頭では、バットマンはスケアクロウの部下を拘束するだけでなく、善意のビジランテ活動をおこなっていた偽バットマンも同時に拘束している。バットマンも偽者もビジランテであることに変わりはないのだが、バットマンは一段高い場所から彼らの存在を断罪している。もちろん「犯罪と戦うのは命がけの危険な行為であり、経験の浅い素人が手を出すべきではない」という教訓を与える意味もあっただろう。しかし、この時のバットマンの態度には、犯罪と戦うのは自分に課せられた使命であり、同種の人間の存在はむしろ邪魔であるという縄張り意識のようなものがかいま見れる。少なくともこの時点においては、相棒(サイドキック)という概念はまったく念頭にないようだ。 映画の序盤では、香港に逃亡したラウをアメリカに連れ戻しているが、これは不法入国および拉致以外の何物でもない。ここで使われた水上飛行機に乗っていたクルーは、韓国人の密輸業者という設定であり、それを手配したのはブルースの執事のアルフレッドである。 また、映画の中盤では、ブルースがウェイン産業の資金を流用してバットマンの装備を開発していることが語られる。これは業務上横領と粉飾決算である。しかも、このことはウェイン産業の社長であるルーシャス・フォックスも関わっている。ブルースやルーシャスにとっては、より大きな正義を実現するためなら、小さな不正をおこなうことは許されると考えていることがわかる。 しかし、そんなルーシャスの心のなかにも、罪悪感を感じる最後の一線は残っていたらしい。映画の終盤、ブルースは携帯電話から発信される高周波を利用して、建物の構造や人物の位置を特定する特殊なソナー装置を開発し、それを使ってジョーカーが潜伏している場所を見つけ出そうとする。しかしそれはゴッサムシティに住む一般市民(3000万人)の会話を盗聴するということでもある。ルーシャスは「これはプライバシーの侵害であり、やりすぎだ」と反発するが、ブルースに説得されて今回限りという条件つきで協力することになる。平気で業務上横領をおこなっていた人間が、プライバシーの侵害ぐらいでここまで嫌悪感を示すのもどうかと思うが、ルーシャスにとっては個人のプライバシーは「絶対に守らなければならないモラル」だったのだろう。 では、コミックの世界ではどうだろうか? こちらも映画と同じく違法行為に満ちあふれているが、ここではモラル的な側面から見た問題行動のいくつかを紹介してみよう。 『JLA: Tower of Babel』…ラーズ・アル・グールの娘タリアバットケイブのコンピュータから一つのファイルを盗み出す。その直後、スーパーマンやワンダーウーマンをはじめとするジャスティス・リーグ・オブ・アメリカ(JLA)のメンバーが次々と襲撃を受けて倒されていく。しかも、その攻撃方法は彼らの肉体的・心理的弱点を的確についたものだった。実はその攻撃方法はバットマン自身が考案したものだった。バットマンはヒーローが敵にまわった場合を想定して、その対処法を考え出していたのだ。その後、回復したJLAはラーズ・アル・グールの人類絶滅計画を阻止するのだが、仲間であるバットマンが自分たちを倒す方法を考えていたという事実にショックを受ける。JLAはバットマンがメンバーとしてふさわしいかどうか協議するが、バットマンは自らの意思で脱退していく(その後、復帰する)。 『the OMAC Project』…ヒーローの行為を信じきれないバットマンは、彼らの行動を監視するために人工知能を搭載した衛星「ブラザー・ワン」を開発する。しかし、ブラザー・ワンは敵にのっとられた挙げ句、人工知能が暴走し、地球上の全てのスーパーヒューマンを全滅させようとする(詳しいあらすじはこちら)。 『Superman/Batman: the Search for Kryptonite』…スーパーマンとバットマンはスーパーマンの弱点であるクリプトナイトを地球上から一掃しようと考える。二人は敵や政府からの抵抗にあいながらも、さまざまな困難を乗り越え、遂に地球上のクリプトナイトを全て破棄することに成功する。しかし、スーパーマンは知らなかったが、バットケイブのなかには万が一の場合に備えて必要十分な量のクリプトナイトが保管されていた。 『Batman: Absolution』…10年前、ウェイン産業に爆破テロをしかけた犯人ジェニファー・ブレイクがインドにいることを突き止めたバットマンは現地へと向かう。しかし、現在のジェニファーは過去の罪を悔い改め、タージマハルの寺院で敬虔な信者として暮らしていた。ジェニファーは過去の罪を反省していると語るが、バットマンは「悪人が真に更生することはなく、犯した罪が赦されることもない」と冷たく告げる。 …こうしたエピソードからわかるのは、バットマンが基本的に他人を信用していない人間だということである。コミックの登場人物は「バットマンは偏執狂(パラノイア)だ」とよく言うのだが、このことはバットマン自身も十分に自覚している。また、バットマンは悪と戦う際に“毒をもって毒を制する”方法を用いており、相手に心理的な恐怖を与えることが自らのモチーフになっているのだが、その点を悪用されることも多い。それはたとえば次のようなエピソードによっても示されている。 『Wonder Woman: Paradise Lost』…デイモス(恐怖[terror]の神)、フォボス(不安[fear]の神)、エリス(不和の神)の三人がゴッサムシティに現れる。三人はそれぞれジョーカー、スケアクロウ、ポイズンアイビーに憑依して人間世界への侵略をもくろむが、それを知ったバットマンやワンダーウーマンと戦うことになる。戦いのさなか、フォボスはスケアクロウの肉体を離れ、バットマンに憑依して究極のパワーを手に入れる。 『JLA/JSA: Virtue and Vice』…「人間の七つの大罪」(怒り、高慢、嫉妬、貪欲、暴飲暴食、色欲、怠惰)の精霊を封じ込めた石像が破壊され、各精霊がJLAJSAのヒーローに憑依する。この時、バットマンは「怒り」の精霊に支配され、それまで以上に攻撃的・暴力的になる。 『Green Lantern: the Sinestro Corps』…ハル・ジョーダンの宿敵シネストログリーンランタン隊(銀河系を守護する平和維持組織)に対抗すべく、シネストロ軍団を結成しようとする。シネストロが作り出した指輪は、銀河各地から「相手に恐怖を与えることのできる人物」をリクルートするが、地球を含む星域で最初に選ばれたのはバットマンだった(バットマンは強靭な精神力で指輪の誘惑を拒否する)。 もとより完璧な性格の人間などいないのだが、バットマン(ブルース)のこうした性格はどこから来たのだろうか。そもそもブルース・ウェインは上流階級の生まれである。アメリカの経済雑誌「フォーブス」によると、推定総資産額は68億ドルとなっている[*1]。幼い頃から一流の環境のなかで一流の教育を受けてきたことは間違いない。そのなかには当然、指導者としての心構えを説いた帝王学や近代政治学の基礎を築いたと言われるマキャヴェリの『君主論』やホッブズの『リヴァイアサン』なども含まれていただろうし、上流階級ならではのノーブレス・オブリージュの思想も学んでいたであろうことは想像にかたくない。 ブルースにとっての正義の観念。それを一言で言うなら「上から目線の正義」ということになるだろうか。貴族や政治家などと同じ、一般市民を統治・支配する立場から見た正義である。支配者階級である彼らにとって重要なのは「社会の秩序を維持すること」であり、個人の幸福は二の次にならざるをえない。すると、必然的にベンサムが提唱した功利主義的な考え方にたどり着く。つまり、「最大多数の最大幸福」というものである。バットマンにとっては「ゴッサムシティの平和と安全」こそが最大の命題であり、それを達成するためなら、小さな不正を働くことも友人を裏切ることも必要悪の一つだと割り切っているのかもしれない。 こうした考え方は、名作『Watchmen』に登場したオジマンディアスと同じものである。また、『コードギアス 反逆のルルーシュ』という人気アニメには、“相手の目を見て命令するだけで、その相手を自由に操る”ことができる特殊能力を持った人物が出てくるが、これも個人の自由意志よりも社会秩序を優先させているという点では「上から目線の正義」に他ならない。現実世界においても、かつての村社会でおこなわれていた間引きや『楢山節考』で描かれた姥捨て伝承は、家族や村という共同体を維持するために個人が犠牲となる必要悪の行為だったと言えよう。 通常のDCユニバースとは異なる平行宇宙エルスワールドの話だが、こうした「上から目線の正義」を如実に示したエピソードがある。 『The Tyrant』(Batman: Shadow of the Bat Annual #2)…両親が強盗によって射殺された後、幼いブルースはジョナサン・クレーン教授(スケアクロウ)に引き取られることになる。成長したブルースはバットマンとして活動を始めるが、すぐに正体を暴露されてしまう。しかし、ゴッサムシティの人々はブルースを歓迎し、やがてブルースはバットマンとして活動するかたわら市長にも選ばれる。ブルースが市長に就任して以来、犯罪発生率は減少していたが、それには理由があった。ブルースはクレーン教授の勧めにしたがって、飲料用の水道タンクに精神安定剤を混入させていたのだ。さらに、クレーン教授は犯罪傾向を持つ人々にだけ作用するような特殊な毒を開発し、それを水道水に混ぜることで、ゴッサムシティの犯罪者数を半減させようと考えていた。それを知ったアナーキー(正史ではジョーカーの息子)は、他の犯罪者を集めてクーデターをもくろむのだが、計画は失敗に終わる。しかし、ブルースは自分がクレーン教授に操られていたことに気づき、テレビカメラの前でこれまでの罪を告白し、市民の手による処罰を甘んじて受け入れる覚悟を決める。 このエピソードで描かれているブルースの正義は、ファシズムの域にまで達している。『1984年』で描かれた全体主義体制や『時計じかけのオレンジ』に登場した犯罪者更生プログラムと同根のものである。こうした社会体制の支配者層にとっては、一般市民は管理すべき「モノ」にすぎず、“善良な市民”ではなく“潜在的な犯罪者”として認識されている。 フィリップ・K・ディックのSF小説に『マイノリティ・リポート』という作品がある[*2]。ここで描かれる未来世界では、予知能力者がこれからおこるであろう犯罪を予知し、それを未然に防ぐことによって犯罪発生件数を最小限に抑えている。まだ犯罪行為をしていない人間を逮捕するというのは本末転倒以外の何物でもないが、この未来世界においては、これが普遍的な司法システムとして確立しており、「個人の自由意志よりも社会秩序の維持のほうが重要である」という思想を端的に示している。実際、民主主義社会と独裁体制社会(ヒトラー時代のドイツやスターリン時代のソ連など)の犯罪発生率を比較すると、独裁体制社会のほうが低いと言われている。 パノプティコンという特殊な構造をした刑務所がある。これは円形の建物で、中心部分に看守のいる塔があり、円周部分に囚人のいる牢屋が配置された構造になっている。また、看守からは囚人が見えるが、囚人からは看守が見えない仕組みになっており、囚人は自分が監視されているのかどうかを判断できない。これにより、最小人数の看守で多数の囚人を効率よく管理しようという試みである。パノプティコン方式の建築物は世界各地に存在している[*3]。本来は囚人用のシステムなのだが、これを社会全体に適用することも不可能ではない。 実際、イギリスでは現在420万台以上の防犯カメラが設置されており、特にミドルスブラという町では防犯カメラの映像を係員がリアルタイムでチェックして、マナー違反者(ゴミを捨てる人や酒を飲む人など)に警告を発するという試みまでなされている。最近では「私は監視されている」と思いこむ新しい精神疾患も出現しているという[*4]。 こうしたシステムが社会全体に行き渡った場合、問題となるのは管理者自身の姿勢である。つまり、『Watchmen』でお馴染みの「誰が見張りを見張るのか」という疑問である。コミックの世界においては、バットマンは他のヒーローを見張っている。では、バットマンを見張るのは誰なのだろうか…? 人気漫画『DEATH NOTE』では、死神のノートを手に入れた主人公のキラは、自らを新時代の神になぞらえて、次々と悪人を始末していく。しかし、彼の基準は極めて恣意的である。自分の地位を守るためなら、「計画にとって邪魔だ」「もはや不必要だ」という理由で、何の罪もない人間すら殺害していく。バットマンは自らに「不殺生の掟」を課しているが、彼がキラのようにならないという保障はどこにもない。 しかしながら、バットマンを危険視しすぎるのも問題だろう。アウトサイダーであるバットマンが社会平和の維持に(ある程度)貢献しているのも事実である。それにバットマンが戦わなければならない「悪」は、凶暴な殺人犯や強盗犯だけではない。社会全体の公序良俗を維持するためには、売春、堕胎、自殺、不法移民といった、いわゆる“被害者なき犯罪”の問題とも取り組まねばならない。 バットマンは(向こうから襲ってこないかぎり)自分から売春婦や不法移民を攻撃したりしない。時には飛び降り自殺者を救うこともある(※飛び降り自殺者を救う場面は、スーパーマンやスパイダーマンのコミックでよく見られる)。バットマンの弟子であるナイトウイングロビン(コミックではブルースの養子になっている)が飛び降り自殺者を救う場面もある。 バットマンのもう一つの顔であるブルース・ウェインは慈善家としても知られており、ウェイン基金を設立し、数々のチャリティ活動をおこない、社会をより良い方向へと進ませようとしている。つまり、彼は無法者バットマンとして凶悪犯と戦うだけでなく、慈善家ブルースとしても現代社会が抱える問題と真摯に取り組んでいるのだ。ヘブライ語で「tzedek」とは「正義」を意味する単語だが、この言葉には「慈善」や「公平さ」といった意味もある。彼は正義には二つの側面があることを知っており、「上から目線の正義」だけでは平和が実現できないことを十分に知っている。『The Nobody』(Batman: Shadow of the Bat #13 自主翻訳はこちら)においても、社会的弱者に対するやさしさを持っていることが示されている。こうした視点を失わないかぎり、バットマンが冷酷な独裁者になることはないだろう。 バットマンを見張る者、それは今のところバットマン自身の内的モラルだけであり、彼が自我崩壊をおこして一線を越えないことを願うのみである。 【ジョーカーの虚無】   私は文明という言葉が大嫌いだ。なぜなら、それは虚偽を意味するからだ。
   《マーク・トゥエイン
   破壊のために生まれてきたことを自覚した人間が、どうして自分の傾向に逆らう必要があろうか?
   《マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』》
 『ダークナイト』におけるジョーカー像とコミックにおけるジョーカー像は微妙に異なっている。映画における一番の変更点は、コミカルな要素を排除したことである。これにより、ジョーカーの凶暴性と危険性が一層際立つことになった。結果的には、この演出は成功したと言えるだろう。 そもそもジョーカーとはどういう存在なのだろう。以下、コミック世界におけるジョーカーの姿を紹介する。 バットマンが初登場したのは「Detective Comics #27」(1939)であり、ジョーカーが初登場したのは翌年の「Batman #1」(1940)である。誰がジョーカーというキャラクターを作ったのかについては異説がある。バットマンの原作者として知られるボブ・ケインは自分とビル・フィンガーが創造したと語っているが、ジェリー・ロビンソンは自分が最初にジョーカーを描いたと主張している。ボブ・ケインは他の人間の手柄を横取りするという一面も持ちあわせており、真相のほどは不明だが、いずれにしろ、ジョーカーのビジュアルにはサイレント映画『The Man Who Laughs』に出てくるキャラクターとの類似が認められる(『The Man Who Laughs』は、『レ・ミゼラブル』で有名なヴィクトル・ユーゴーの同名小説を映画化したもの)。 ジョーカーの基本的な性格は、コミックにはじめて登場した時からほとんど変わっていない。つまり、サイコパスの殺人鬼である。彼のオリジン(誕生秘話)がはじめて明らかにされたのは、デビューから10年後の「Detective Comics #168」(1951)であり、ジョーカーとなる以前にレッドフードという名の悪人だったことが語られている。 ジョーカーのオリジンについては、アラン・ムーアが脚本を担当した『Batman: the Killing Joke』(1988)が有名だが、それとは異なる別バージョンもある。ポール・ディニアレックス・ロスが手がけた「Case Study」(『Batman: Black & White Vol.2』『the Joker: Greatest Stories Ever Told』に収録)では、彼は自分の意思でレッドフードとなり、ジョーカーとなった後も狂気を装っているだけだという可能性が示されている。また、『Batman: Lovers and Madmen』(2007)で描かれたオリジンでは、レッドフードが登場しないまったくの別物となっている。これらは別に編集者のミスではない。複数のオリジンが存在すること、つまり矛盾を抱えた理解不能な存在であるということ自体が、ジョーカーの性質を端的に物語っているのだ。 1954年、コミック業界は自主規制の証として「コミックス・コード」を制定することになる。ここで定められたルールのなかには、「どんな場合においても、善は悪に対して勝利を収めなければならない」「過度の暴力場面は禁止」といった項目もある[*5]。これにともない、ジョーカーの犯罪もトーンダウンせざるをえなくなる。 1960年代はもっとひどかった。ジョーカー嫌いの編集者ジュリアス・シュワーツがバットマンのコミックの編集長の座に就いたため、ジョーカーはコミックの世界からほとんど姿を消してしまう(その代わりにテレビ版『バットマン』が人気を博す)。 けれども、1973年、バットマンのコミックはシリアス路線へと変更され、デニス・オニールニール・アダムスが手がけた「Batman #251」においてジョーカーは劇的な復帰を果たす。それ以降は名実ともにバットマンの宿敵としての座を維持し続けている。 余談だが、ジョーカーが使用する毒薬(ジョーカー・ヴェノム)について説明しておこう。この毒薬は液体や気体などさまざまな形で利用されるのだが、この毒におかされた被害者は笑いながら(笑った顔のまま)死ぬという点では同じである。一般的には、この毒薬を開発したのはジョーカー自身だということになっているが、別の研究者に開発させたものをジョーカーが横取りしたという異説もある(ここでも矛盾が見られる)。 笑気ガスというのは実際に存在している。1772年にジョゼフ・プリーストリーが発見したもので、その正体は亜酸化窒素である。当時は「ハイな気分になれるガス」ということで、一種の興奮剤としてパーティーなどで使用されていたのだが、中毒患者が続出したためにブームは下火になったそうだ。笑気ガスは現代でも歯科治療時などに使用されることがある。ジョーカーが使用しているジョーカー・ガスは、この笑気ガスに毒物を混入して作られたものだと考えられる。 ちなみに、医学博士の上野正彦が「笑い顔のまま死ぬ人はいるか?」「笑い死にはあり得るか?」という考察をおこなっている[*6]。それによると、笑いすぎると呼吸困難に陥ることはあるが、それで死ぬことはめったになく、死んだ後は顔面の神経が麻痺するので、笑い顔の死体も存在しないそうだ。 さて、次に、ジョーカーがおかした犯罪の数々を見てみよう。 「The Laughing Fish」(Detective Comics #475-476 『the Joker: Greatest Stories Ever Told』に収録)…ジョーカーは特殊な毒物を用いて、ゴッサムシティ近辺で水揚げされた全ての魚の顔を自分と同じ笑顔へと変形してしまう。しかも、その魚の顔を商標登録することにより、漁業関係者や消費者から特許使用料をもらおうと画策する。 (※このあらすじだけを読むと、いかにもバカバカしい話のように聞こえるが、これは普通の人間には理解不能なジョーカーの狂気を的確に表現したエピソードとして高く評価されている。この背景には、裁判社会と言われるアメリカの事情も関係しているのだろう。アメリカには常識はずれとしか言いようのない裁判事例がいくつもある。たとえば、世界貿易センター爆破事件の犯人であるラムジー・ユーセフという男は、自分が服役している刑務所の規則が「拷問、嫌がらせ、侮蔑、脅迫、市民的権利の侵害」にあたるとして訴えをおこし、110万ドルの損害賠償を請求したこともある[*7]) 『Batman: the Killing Joke』…ジョーカーはゴードン本部長の自宅へと侵入し、姪のバーバラ(バットガール)の腹部に銃弾を撃ちこみ、下半身不随にしてしまう。その後、ゴードンを拉致したジョーカーは、バーバラが暴行を受ける場面を見せつけてゴードンを精神的にいたぶる。 『Batman: A Death in the Family』…実の母親を捜し求める二代目ロビン(ジェイソン・トッド)は、エチオピアで支援活動をしていた母親シーラと念願の再会を果たすが、彼女はジョーカーに脅迫されていた。シーラは息子を裏切って、ジェイソンをジョーカーに引き渡す。ジョーカーはジェイソンを殴って半殺しにした後、ジェイソンとシーラを爆弾で殺害する。その後、ジョーカーはイランの指導者ホメイニ(実在の人物)のもとで、国連におけるイラン代表としての地位を授与され、外交官特権を手に入れる。国連会議で演説をおこなうことになったジョーカーは、毒ガスを散布して各国の外交官を皆殺しにしようとするが、スーパーマンによって阻止される。 『Batman: No Man’s Land』…大地震や疫病の発生により壊滅的な打撃をこうむったゴッサムシティは、合衆国政府の判断により“居住不可地域”に指定され、本土から隔離されてしまう。ほとんどの市民は本土へと移住したが、バットマンやゴードンをはじめとする一部の人間はゴッサムに残り、悪人たちと縄張り争いを展開することになる。1年間の隔離政策が終わりを迎える直前、ジョーカーは複数の赤ん坊を誘拐して市警本部ビルに侵入し、ゴードンの二番目の妻であるサラ・エッセンを射殺する。 「Birds of Prey #16-17」…『No Man’s Land』事件の直後、ジョーカーは中東の小国クラク(DCユニバースにある架空の国)へと逃れ、その国の大使の座に就く。クラクは周辺諸国に戦争をしかけ、紛争を解決するために国連軍が出動することになる。ジョーカーはクラク大使としてニューヨークを訪れ、国連軍が撤退しないなら、ニューヨークに中性子爆弾を落とすと脅迫するが、バーズ・オブ・プレイの活躍によって事件は解決する。 『Batman: the Joker’s Last Laugh』…余命いくばくもないと診断されたジョーカーは、特殊な毒ガスを使って他の悪人たちをジョーカー化させて、自分の後継者を作り出そうと考える。ジョーカー化した悪人はさらに凶悪になり、世界中が大混乱に陥る。 『Superman: Emperor Joker』…ジョーカーは五次元の住人ミスター・ムクジプトルクの超科学パワーを奪い、現実世界を改変してしまう。この世界ではジョーカーが皇帝であり、バットマンは何度も殺されて何度も復活させられることになる。 「Soft Targets」(Gotham Central #12-15 『Gotham Central: Unresolved Targets』に収録)…クリスマスの直前、ジョーカーは長距離ライフルを使って無差別連続殺人事件をひきおこす。ジョーカーは警察署のパソコンネットワークを乗っ取り、次の犯行予告までおこなう。やがて、テレビの女性アナウンサーが誘拐されるが、その直後、ジョーカーは自らの意思で警察に出頭し、バットマンに特別なプレゼントを贈ると告げる。 「Batman #663」(『Batman: Batman and Son』に収録)…至近距離から銃で撃たれ重傷を負ったジョーカーは、大がかりな整形手術を受けた後、アーカム・アサイラムへと収容される。一方、塀の外の世界では、ジョーカーのかつての部下が次々と殺されていく。それはジョーカーからの指示を受けたハーレー・クインの仕業だった。アーカム・アサイラムへと出向いたバットマンはジョーカーと対面するが、ジョーカーの真の目的はバットマンの目の前でハーレー・クインを殺すことだった。 このように、コミックの世界においてはジョーカーは一貫して狂気の殺人鬼として描かれている。『Joker: Devil’s Advocate』によると、ジョーカーが殺した犠牲者の数は2000人を超えるとされている。では、ジョーカーの精神構造についてはどういう解釈がなされているだろうか? 『Batman: Arkham Asylum』のなかでは、精神科医がジョーカーについて“現代社会に適応した新しい形の認識形態であり、超正気とでも呼ぶべき精神構造”ではないかと述べている。ここには脚本を担当したグラント・モリスンの考えが反映されている。彼は多重人格症状を人間の意識が進化した状態だととらえている[*8]。同じくグラント・モリスンが脚本を書いた「Batman #663」では、ジョーカーには核となる人格がなく、トランプをシャッフルするように毎日新しい人格を作り出しているのではないかという示唆がされている。  一方、『ダークナイト』におけるジョーカーはどうであろうか? 彼は本当に“狂人”なのだろうか? 結論から言うと、『ダークナイト』におけるジョーカーを狂気と呼ぶことはためらわれる。病院の場面で、ジョーカーはトゥーフェイスに対して「俺は自動車を追いかける犬と同じように本能で行動する。警察やマフィアのように計画を立てる策士ではない」と語っているが、これは半分事実で半分嘘である。ジョーカーが極めて高い知能指数を持った反社会性人格障害者であることは間違いない(※反社会性人格障害の特徴は常習的な違法行為、攻撃性、虚言癖、無責任、良心の欠如などである)。これをもってジョーカーに精神異常という診断を下し、「狂気」というレッテルを貼ることは簡単である。しかし、ジョーカーにはそれ以上の何かがあるような気がする。 普通、犯罪には動機がともなう。では、ジョーカーの動機は何だろう? 金銭? ジョーカーは札束の山に火をつけて燃やしている。彼にとって金は無価値である。 社会に対する恨み? ジョーカーが社会全体に対して怒りを感じているとは思えない。怒りと笑いは共存しないからだ。 快楽殺人? ジョーカーが殺人そのものを楽しむ快楽殺人鬼なら、もっと残虐で執拗な手段を選ぶはず。人にナイフを突きつけているが、明確なサディズムは感じられず、むしろ無頓着である(※コミックの世界では、ブラックマスクZSASZなど明らかにサディスティックな傾向を持った悪人がいるが、ジョーカーがサディズムの嗜好を見せることはあまりない。二代目ロビンを殺害した時とバーバラを暴行した時ぐらいか)。 支配願望? ジョーカーはギャングに対し「俺の部下になれ」と言い、後には「この街は俺のものだ」と宣言している。これらは他者に対する支配欲・征服欲を示しているが、それにこだわっている様子はなく、明確な権力志向は見られない。 愉快犯? 世間を騒がせて楽しむこと自体が目的なら、もっと簡単な方法がいくらでもある。 自己愛? ジョーカーの行為は劇場型犯罪ではあるが、世間の注目を浴びることが最終的な目的だとは思えない。 狂信? ある種のカルト教団は誇大妄想的な思想を信奉するあまり、革命をおこして国家を転覆させようと企むことがある。しかし、ジョーカーの行動に宗教性は見られない。 歪んだ自殺願望? 自分の人生に絶望した犯罪者のなかには、裁判で死刑になることを目的として、大量殺人を実行する場合がある。しかし、死刑になることが目的なら、最初の犯行で捕まればよい。 誇大妄想? 連続殺人犯のなかには「自分は神だ」と豪語するものがいる。人間の命(=価値のあるもの)を奪うことで、自分が神のごとき絶対的な力を持っていると思いこむらしい。人の命を奪って神になれるのなら、人を愛して新たな命を生み出すことでも神になれるはずなのだが、そうした考え方は彼らの頭からは(都合よく)抜け落ちている。 …その他にもいろいろと考えられるが、どれもしっくりこない。一番しっくりくる答えは、「常人には理解不能」というものである。 『ダークナイト』のなかで、ジョーカーは何度か自殺傾向をほのめかせるような行動を見せている。自分の体に爆弾を巻きつけてマフィアの会合に押しかけたり、自分を死体袋につめてギャングのアジトに侵入したり、バットポッドに乗って突撃してくるバットマンに向かって「俺を殺せ」を叫んだり、病室でトゥーフェイスに銃を渡したりといった具合である。これらはジョーカーの自殺願望を表しているのだろうか? これらの行動を、ジョーカーの無意識的な自罰行為、すなわち「早く自分を止めてほしい」という良心の叫びだと解釈することも可能かもしれないが、おそらくそうではない。これこそ、「自分の命すら何の意味もない」というジョーカーの“常人には理解不能”な非人間的心理の混沌状態を如実に示したものだと言えるだろう。 哲学者ニーチェの概念の一つに“能動的ニヒリズム”というのがある。個人の精神の力が強くなりすぎると、従来の価値観を必要としなくなる。そういう人間は「人生や世界は無意味である」という認識を持つものの、自分から何かを創造しようとはしない。そのため、あり余ったエネルギーは従来の価値観や社会全体の破壊に向かい、反社会的な人間を生み出すという。 わかりやすい例えをするなら、反抗期の青少年のような心理だろうか。この時期の青少年は、自分が社会からの期待に応えられないと思いこむと、あえて反社会的な非行に走ることで自分の居場所を見つけようとする場合がある。心理学の世界では、これを「否定的同一性」と呼んでいる。 また、思春期の青少年はエゴが肥大して、何の実力もないのに全てを悟ったような万能感を抱く場合がある。本や漫画で新しい知識や価値観に触れると、批判することもなく、それが唯一絶対の真実だと思いこんだりする。自分及び自分が認めたものだけが価値があり、その他のものは全て無価値だと見なす。幼稚な精神構造をもった“井の中の蛙”、いわゆるジコチュー人間である。 こうした人間は時として「悪の美学」に心酔することがある。精神的に未成熟な人間は、それまでとは違う価値観を示されると、“目からうろこが落ちた”ようになって、これこそ真実だと思いこむ。『ダークナイト』のなかでジョーカーの部下になった男たちも、ジョーカーというカリスマが提示した「悪の美学」に魅せられたのかもしれない。 コミックの世界にも、正反対の価値観を持ったキャラクターはいる。たとえば、スーパーマンの宿敵の一人ビザーロはコミカルなキャラクターではあるが、「善は悪」「美は醜」「真実は嘘」といった普通とは逆の価値観のなかで生きている。また、アース3という平行宇宙は、善と悪の価値観が逆転した世界であり、悪のJLAとも言うべきクライム・シンジケート・オブ・アメリカによって支配されている。 しかし、ジョーカーの心理は、ただ単に従来の価値観を逆にしただけというような単純なものではないように思える。先ほど述べた「自分の命すら無価値」といった虚無的な要素があるからだ。ジョーカーという存在にはどこか哲学的なところがある。それはまるで「デレオ・エルゴ・スム(我、破壊する。ゆえに我あり)」とでも呼べるような根源的なものである。精神分析学の祖フロイトは、人間には「生の本能」と「死の本能」があると考えたが、その言葉を借りるなら、ジョーカーには「死の本能」しかないのかもしれない。 マーベル・ユニバースにギャラクタスという巨人がいる。彼は超古代から生きている半神存在で、一つの惑星を丸ごと(住民も含めて)エネルギーに変換して、それを喰らって生きている宇宙魔神である。ギャラクタスによって滅ぼされた文明惑星は数多く、何の罪もないのに滅ぼされた住民にとっては「邪悪な悪魔」「宇宙規模の大量殺人鬼」以外の何者でもない。何度か地球にやって来たこともあるが、ファンタスティック・フォーによって阻止されている。さて、ある時、地球にやって来たギャラクタスは今回もファンタスティック・フォーによって阻止される。しかし、このままではギャラクタスは飢え死にしてしまう。ミスター・ファンタスティックはギャラクタスを殺すことはできないと考え、当面の食料として惑星の擬似エネルギーをギャラクタスに与えて外宇宙へと送り出す。その後、ギャラクタスは別の銀河系を目指し、そこで一つの惑星を喰らうのだが、そのことが新たな問題をひきおこす。一つの惑星が滅んだのはギャラクタスを殺さなかったからだとして、銀河系の列強種族がミスター・ファンタスティックを逮捕して裁判にかけたのだ。しかし、その裁判において、ギャラクタスの行為は「悪」かもしれないが、宇宙全体の秩序を保つためには必要不可欠な存在だということが明らかになる。つまり、シマウマを殺すライオンが「悪」ではないように、ギャラクタスもまた(ブラックホールのように)自然の力の一つにすぎないと結論づけられたのだ(「Trial of Galactus」 Fantastic Four #242-244, 261-262)。 宇宙魔神であるギャラクタスと人間にすぎないジョーカーを同列に論じることには無理があるが、それでもジョーカーの「悪」の裏には他の犯罪者にはない何か、普通の人間を超越した何かがあると思えてならない。ジョーカーの行為を見た観客が感じるのは、「殺人鬼に殺されるかもしれない」という肉体的な恐怖ではなく、「我々が無条件に信じてきた価値観や人間性といったものを破壊されるかもしれない」という心理的な不安である。つまり、ジョーカーの行為は個人に対する非道ではなく、人類全体あるいは人間性そのものに対する挑戦である。テロリストや戦犯を裁く時には「人道に対する犯罪」(Crime Against Humanity)という言葉が使われることがあるが、ジョーカーの行為はまさにそれである。それを象徴的に示している場面が「Swamp Thing #30」(『Swamp Thing: Love and Death』に収録)に描かれている。スワンプシング(地球の植物生態系を具現化した存在)の宿敵アーケインがアメリカ全土に恐怖と狂気をまき散らした時、アーカム・アサイラムに収容されていたジョーカーは笑うのをやめるのである。この世界が混沌に包まれたなら、ジョーカーという存在はもはや不要であるということを雄弁に物語っている。ジョーカーは映画のなかで頻繁に爆弾を使用しているが、あれには理由がある。あれは「何かを破壊する」ということの象徴であり視覚的表現である。 ジョーカーは人間性を破壊し、世界そのものを破壊する。それはまさにトリックスターである。中世の宮廷道化師は「道化」という形を借りて国王を批判したが、彼らは「愚か者」であるがゆえに処罰されることはなかった。そういう意味では、『ダークナイト』におけるジョーカーは世界という舞台の上で、人間存在そのものを笑い飛ばす究極のトリックスターだと言えるのかもしれない。ちなみに、タロットカードに「愚者」というカードがある。「0」という特殊な番号を持ち、正位置では「自由、天才」を意味し、逆位置では「軽率、落ちこぼれ」を意味する。これがトランプのジョーカーの原型になったという説は現在では否定されているらしいが、なんとなく意味深ではある。 ジョーカーを「狂気」「狂人」と呼ぶことはたやすい。「反社会性人格障害」とか「サイコパス」といった診断名をくだすことも可能である。しかし、それではジョーカーの本質を捉えることは多分できないだろう。ジョーカーにレッテルを貼ることは、彼を既存の枠組みのなかに落としこむことである。しかし、それは間違っている。彼の本質は既存の枠組みでは推し量れない何か、常人には理解不能な何かである。逆説的な言い方だが、“その本質を捉えることができないこと”こそが、ジョーカーの本質なのである。 ジョーカーはただの犯罪者ではない。「人間性の破壊者」である。そういう意味では、もっとも危険な存在である。人の姿をしていながら、人の心を持たぬもの。我々は彼をどうやって裁けばいいのだろうか? 【ヒーローは悪人を殺すべきか】   バッサーニオ 「嫌いなものは殺してしまう。それが人間のすることか?」
   シャイロック 「憎けりゃ殺す、それが人間ってもんじゃないのかね?」
   《シェイクスピアヴェニスの商人』 第四幕第一場》
 バットマンには絶対に破ってはならない神聖不可侵のルールがある。それは「たとえ悪人でも、命を奪ってはならない」というものである。ヒーローが悪人を殺すべきかどうかについては、昔から議論がなされているが、最終的な結論が出せる問題ではないので、今後も同じような議論が繰り返されることだろう。以下、コミックの世界において、ヒーローたちが犯した殺人(未遂)事件のいくつかを紹介する。 『Batman: No Man’s Land』…1999年、ゴッサムシティは政府の定めた法律により合衆国本土から隔離され、無法地域と化す。1年間の隔離政策が終わりを迎える直前、ジョーカーは複数の赤ん坊を誘拐して市警本部ビルに侵入する。ゴードンの二番目の妻であるサラ・エッセンは赤ん坊を救い出そうとして、ジョーカーに射殺される。姪のバーバラ(バットガール)に続いて家族を傷つけられたゴードンは、怒りと悲しみのあまりジョーカーに銃を向ける。バットマンはあえて止めようとしないが、ゴードンはなんとか自分を抑え、ジョーカーの膝を撃ちぬくだけにとどめる。 『Batman: the Joker’s Last Laugh』…余命いくばくもないと診断されたジョーカーは、特殊な毒ガスを使って他の悪人たちをジョーカー化させて、自分の後継者を作り出そうと考える。より凶悪化したヴィランの集団脱獄により世界中が大混乱に陥るが、バットマンたちの活躍により事件は解決される。しかし、そのクライマックスにおいて、三代目ロビンを殺されたと思いこんだナイトウイングはジョーカーをめった打ちにして息の根を止めてしまう。ジョーカーは人工呼吸をほどこされ息を吹き返すのだが、一時的とは言えジョーカーを殺してしまったナイトウイングは、罪悪感に苦しめられることになる。 『Batman: Hush』…幼なじみのトーマス・エリオットを殺されたと思いこんだバットマンは、怒りにかられてジョーカーを殴り殺そうとする。しかし、最後の一撃を加える直前、ゴードンに説得されて思いとどまる。 『Batman vs. Aliens』…バットマンは行方不明になった地質学者を捜索するために、中南米のジャングル奥地へと飛ぶ。古代遺跡のなかで凶暴なエイリアンと遭遇したバットマンは、最終的にエイリアンを殲滅させて脱出する(※『Green Lantern vs. Aliens』という作品のなかでは、銀河系を守護するグリーンランタン隊がエイリアンと遭遇する。グリーンランタンの組織にも不殺生のルールがあるのだが、彼らは「エイリアンは殺傷本能をもった危険な生物だが悪ではない」と判断して、一つの惑星に閉じこめようとする)。 『Superman: Sacrifice』…マックス・ロードに洗脳されたスーパーマンが幻覚にとらわれ、バットマンに瀕死の重傷を負わせる。ワンダーウーマンはスーパーマンの洗脳を解くにはマックスを殺す以外にないと判断し、マックスの首の骨を折って殺害する。回復したバットマンは殺人という罪を犯したワンダーウーマンを冷たく拒否し、スーパーマンに対しても「地球最強の力を持った存在に、洗脳されたからなどという言い訳は許されない」と断罪する(詳しいあらすじはこちら)。その後、ワンダーウーマンはオランダのハーグにある国際司法裁判所で司法の裁きを受けることになるが、正当防衛と見なされて無罪判決を言い渡される[*9]。 「Nightwing #93」…ナイトウイングの正体がディック・グレイソンであることを知った暗黒街の大物ブロックバスターが、ナイトウイングの友人知人を皆殺しにしようとする。タランチュラ(カタリーナ・フロレス)という名のビジランテがブロックバスターを射殺しようとした際、ナイトウイングはそれを阻止することもできたのだが、友人たちを守るため、あえて手出しすることなく、ブロックバスターを見殺しにする道を選ぶ。「人を殺さない」というルールを破ってしまったナイトウイングは、精神的ショックのあまり、一時的な自閉状態に陥ってしまう。タランチュラはその状況を利用して、ナイトウイングをレイプする。女性が男性をレイプするというショッキングな展開は、読者の間でも物議をかもした。 「Action Comics Annual #1」…吸血鬼にのっとられた村を救うため、バットマンはスーパーマンの手を借りることにする。その際、バットマンは傷ついたスーパーマンを助けるために吸血鬼を刺し殺す。 「Superman #22」…スーパーマンは異次元宇宙ポケット・ユニバースを滅ぼしたクリプトン星人の犯罪者3人をクリプトナイトを使って処刑する。その後、罪悪感にさいなまれたスーパーマンは外宇宙へと逃避行に旅立つ。 「Action Comics #719」…スーパーマンの婚約者であるロイス・レーンがジョーカーの毒に冒されて意識不明の重体に陥る。解毒剤を手に入れるためにはジョーカーを殺すしかない。スーパーマンはジョーカー殺害を決意するが、バットマンに説得されて思いとどまる。その後、ロイスは回復するが、スーパーマンの行動を知ったロイスは婚約を解消する(その半年後に結婚するのだが)。 『Wonder Woman: Eyes of the Gorgon』…ワンダーウーマンは国民がテレビ中継で見守るなか、ギリシア神話の怪物メデューサと闘技場で戦うことになる。ワンダーウーマンは両目の失明という犠牲を払いながらも、メデューサの首を切り落として殺害する。 『Kingdom Come』…アース22と呼ばれる平行宇宙では、マゴッグという名のアンチヒーローがジョーカーを殺害する。マゴッグは裁判にかけられるが、ジョーカーの殺害は「正義の行動」であると判断され無罪判決を受ける。市民の意識調査でも、マゴッグを支持する人が77%、スーパーマンを支持する人が18%という結果になる。 …ここで注目したいのは、エイリアン・吸血鬼・メデューサといった怪物を(追いつめられた末に)殺していること。バットマンの敵のなかには、キラークロッククレイフェイスなど「怪人」と言うよりも「怪物」と呼んだほうがいいようなキャラクターも登場している。しかし、バットマンが彼らを殺すことはない。彼らはどんな姿であろうと「人間」だと見なされており、それゆえにその命には価値があると考えられているからだ。人間とチンパンジーのDNAを比較すると、98.4%が一致しているという。ネズミと比較しても80%、ミミズと比較しても40%が一致しているらしい。普通の人間とメタヒューマン(超人や怪人)のDNAがどの程度一致しているのかはわからないが、人間と非人間の境界線(すなわち殺しの境界線)はどこにあるのだろう。「ヒューマノイド型の知的生命体の命は価値があり、非ヒューマノイド型の生命体の命は価値がない」というような単純な人間中心主義による区別でもないようだ。ヒーローたちが掲げる生命倫理はきわめて恣意的であり、絶対的な根拠のないあやふやな概念であることがわかる。 「Batman & Superman: World’s Finest #7」(『Superman/Batman: the Greatest Stories Ever Told』に収録。自主翻訳はこちら)のなかで、バットマンとスーパーマンが他者の命を奪うことについて議論を交わす場面がある。スーパーマンは「あらゆる物を破壊する凶暴な怪物と戦う羽目になったら、自分の命を引き換えにしても怪物を殺して阻止する」と語る(その後、この言葉通り、スーパーマンはドゥームズデイと戦って“死亡”することになる)。一方、バットマンは「自分が死ぬかジョーカーを道連れにするかという状況に追いこまれたとしても、何か方法があるはずだ」と語る(これでは答えたことにならないのだが)。 結局、ヒーローたちも迷っているのである。理想と現実がせめぎあう世界のなかで、ヒーローたちも迷い、苦しみ、悩み続けているのだ。それは決して優柔不断なことではない。「人の命は大切だ」とか「悪人は死刑にすべきだ」というふうに簡単に答えを出してしまうほうが、よほど危険である。解決できない悩みを抱えて生きることは、つらいことかもしれない。しかし、それは悩みに耐える強さを持っているということでもある。人は強さがあるから悩むことができ、悩むことによって強くもなれる。簡単に答えを出すことは要注意である。