雨降らし男の話

アメリカインディアンの言い伝えである。

ある年、雨が降らず、かんばつで農民は苦しんでいた。
祈祷もおまじないもして生贄も捧げたが雨はふらない。
途方にくれていたところ、『雨降らし男』がいるらしいとの話になった。
さっそく、雨降らし男を招いて、雨を降らしてくれるようにみんなで頼んだ。
雨降らし男は何も説明せず村の真ん中に小屋を立ててくれるようにお願いした。
そこに閉じこもって数日出てこなかった。
雨が降った。
農民は喜んで男に感謝した。男は村人に説明した。
この土地には自然の秩序に従っていない独特の空気の病気がある。
気が脱臼している。私がこの土地に入ったとき、私の精神も脱臼した。
だからまず私は自分の精神の脱臼を癒していた。
そして私自身の精神の脱臼が癒えたかと思う頃、雨が降った。
私がしたのはわずかにそのようなことだ。
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場を支配している邪気をいかにして浄化するか
あるいは
場で対立している陰陽、または、光と影をどのように統合するか
インテグレイトの問題である
統合の方法として
外部で光と影を結合する必要はなかったのだ
患者の中でも
患者と治療者の間でも必要はなかった
ただ治療者の心のなかで光と影が統合されれば充分であった
そのことが治療の場を変化させ、患者を変化させる
治療者がいかに自己浄化するかという問題である
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気候の全体を治療する必要はなかった
ただ雨降らし男は自分を整えるだけだった
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なにが起こったのか?
治療というものは、患者さんを変えるなんてできないのだ
特に外来治療では変えるなんて難しい
話しても聞いていないし、真実を語らなしい、やりますと言ってなにもしない、患者さんを変えるのは難しい
ただわずかに、患者さんに影響されている治療者が自分自身を分析できるだけである
雨降らしの教訓は、患者さんに影響されて巻き込まれている自分を整えなさいということだ
治療者が、いったん巻き込まれた自分を整えることで、患者さんが治るとしたらどうだろう
雨は降る
もちろん、血圧の上昇のメカニズムを治療者が理解したところで血圧が下がるはずはない
しかし精神と精神は違う、これは魂と魂である
ヒトがラットを観察しているのとは違う、決定的に違う
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私は老年期の認知症患者に対して
脳という窓が曇っているだけで、魂は世界を感受していると考えている
どうせ何も分からないと思うのは大きな間違いだと思う
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治療者が理解することは大切である
しかし治療者が「体系的に誤解して妄想している」としたらどうなるのだろう
それでも治るのか?
さらに深く強固な病気になったというべきなのか
原始共同体で共有されている神話的理解の例はいくらでもある
個人的妄想に巻き込まれる場合も多くある
それでもいったんの治癒に至ることはどう理解したらいいのだろう
「病気」というものの本質がさらに分からなくなる
「雨降らし男」は少なくとも天気を操作しなかった