「学校に行きたくない」と泣きじゃくる娘

出所不明の記事採録。

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「学校に行きたくない」と泣きじゃくる娘
その立場に立って初めてわかる親の気持ち     
 昔、「サザエさん症候群」という言葉を聞いたことがある。日曜日の夕方、「サザエさん」が始まる頃になると気分が憂鬱(ゆううつ)になるというものだ。

 「サザエさん症候群」は明日から仕事や学校が始まるというプレッシャーから来る憂鬱だと思うが、最近の私は別の理由で憂鬱になる。その理由というのが、小学校3年生の次女が訴える「学校に行きたくない」病だ。毎週というわけではないが、主に月曜日の朝になると次女が「学校に行きたくない」と言ってグズるのだ。

娘が笑って登校できるようになるのは、いつになるのだろうか……(写真はイメージ) 先週の月曜日は、朝起きてきたときはなんでもなく朝ご飯も元気に食べたのに、いざ登校の準備を始めるころになると「お腹が痛い」と言い出した。お腹を押さえて「お腹が痛い。今日は学校に行かない」と言いながらベソをかいている。私たち夫婦はともに教員。2人で顔を見合わせ、「どうしよう」としばし沈黙。そのときは妻が午前中は休んで様子を見ることにしたが、午後はどうしてもはずせない出張があり、私も放課後に生徒との約束があったので、やむを得ず午後は長女が帰宅するまで1人で寝かせておくことにした。

 その前の週はやはりグズグズ言っていたのだが、こちらが無視をしていたら仕方なく登校の準備をし、それでも玄関でうずくまっていたところに友達が誘いに来てくれてなんとか学校へ行った。こんな日が月に2、3回、主に月曜日にやってくる。1日休むと次の日から週末までは元気に学校へ行くのだが。わが家の次女は、学校の業界用語で言えば「不登校傾向」にあてはまるだろう。

 大人との相性が難しくて、保育園の年中のときには担任と合わず、保育園の玄関で毎日のように泣きわめいていた。妻はその担任から「ご両親の愛情不足ではないですか?」と言われてひどく落ち込んでいたこともある。小学校に入ると今度は人前で発表したりするのが苦手で、帰りの会でスピーチをしなければならないというだけで、前の日から「学校に行きたくない」と言って泣いていた。最近の小・中学校はとにかくやたらとしゃべることに重点を置くので、次女にとって学校は嫌なことだらけのようだ。2年生のときは担任の先生が大好きになり、その先生もずいぶん気にかけてかわいがってくれていたので、6月ごろにはほとんど欠席もしなくなった。ところが3年生になり、また担任が替わると再び「不登校傾向」に。

 子どもが「学校に行きたくない」と言ったとき、親の頭には「不登校」の文字が浮かんでくる。ましてや私たち夫婦は教員である。私たち教員は常に「自分の子どももまともに育てられなくて人の子を教えられるのか?」というプレッシャーを感じている。このまま「不登校」になってしまったらどうしよう……。

 今ここで許してしまったら本当の「不登校」になってしまう、という焦りから、泣きじゃくる次女を引きずるようにして車に乗せ、学校まで連れて行ったこともある。「そんなに学校に行きたくないならもういい! ランドセルなんかもういらないんだから捨ててくる!」と言ってゴミ袋に入れて本当にゴミ置き場に捨てに行ったこともある。そのときは次女が泣きながらランドセルを拾ってきたからよかったが……。

 こんな親だが、職場に行けば教員という立場で「不登校」の子どもやその親と向き合わなければならない。「不登校」の子どもの数はずっと以前から減るどころか増えているのが現状で、だいたい1学級に1人以上「不登校」の子どもがいると思って間違いない。私自身、何人もの「不登校」の子どもを見てきたし、何度も何度も家庭訪問をして保護者ともいろんな話をした。自分なりに真剣に付き合ってきたつもりだし、いろいろな本を読み学習会にも参加して、それなりに学習してきたつもりでもある。しかし、今までの自分はわかってるつもりになっていただけで、やっぱりわかってなかったんだなあ、と思う。

 次女がときどき「学校に行かない」と言うだけでこんなに疲れるのだから、毎日「学校に行かない」と言って泣いたり暴れたりする子どもの親はどんな気持ちで朝を迎えるのだろう。「すみません。今日もダメみたいです」と暗い声で電話をかけてくるお母さんに、思わず自分を重ねてしまう。今までの自分はきっとこんな気持ちもわからずに保護者にも勝手なことを言ってきたんだろうな。

 教員どうしの会話の中で「やっぱり家庭の問題だろうね。親の接し方に問題があったんじゃないのかな」などと言われると、つい「自分はどうなんだろう……」と気分が暗くなってしまう。この人に自分の子どもの話をしたら、この人は何と言うのだろうか。

 もうすぐ春休み。学年が変わりクラスや担任も変わればきっと娘も変わるのではないかと期待する親としての自分と、そんなに甘くはないよ、と冷静に分析する教師としての自分がいる。