逆・トルストイの法則

すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。よく知られている、トルストイの『アンナ・カレーニナ』冒頭である。
「物事を正しく理解している人は同じように正しいが、バカはそれぞれにバカである」と池田信夫氏は語っている。真理は一つかもしれないが、誤解は無数にある。
たしかに真理はひとつであり、間違いは様々である
数学の正解は一つで、間違いは様々なのだ
脳の本来の正常な働きは、私の狭い定義によれば、自然界を正確に脳内に転写し生成することであってその意味では正解は一つであり、脳の誤作動は様々であるということになる
戦争で大砲の角度をどうすればよいかはただひとつの正解があるはずであってそれ以外はハズレである
トルストイの言う幸福が、脳の正常な働きというような意味で、全く狭義に「正しい」ものならばお互いに似ているだろうし、逆に不幸は様々であるということになる脳の崩壊のしかたは様々なのである
ところが、である。困ったことに、全く困ったことに、我々が臨床で扱う不幸は互いに似ていて、だからこそ法則化できるし、一般化できる。
不幸な結婚のパターンは幾つかあって、お互いに似ている。幸福な結婚のパターンはむしろ様々であって、意外性に富む。
不幸は、こんなにも頭の悪い私でさえ容易に「あ、あの人と同じことを言っている」と認識出来る程度に全くそっくりなのである
ということは、なんと、トルストイの法則とは逆なのである
不幸はお互いに似ていて、幸福はそれぞれのしかたで幸福なのである
不幸を法則化できるからいろいろな商売は成立している占い師も医師も牧師も同じである
風俗で働いている女性も同じ感想をいう幸せで満足している人は風俗なんかには来ないで彼女と「ただで」いちゃついている不幸だから風俗に来てお金を使うついでに病気をもらう女性としてはそんな男性とセックスのような行為をしていても幸せを感じるはずがない恋愛のような言葉を並べられてもちっとも感じない
だって幸せを生成する能力がないから風俗に来てお金を使っているのであるこの自由セックスの時代にである
だから風俗嬢は男性の不幸の源泉についてよく知っているその意見によれば、「不幸な男性は、みんな似ているし、類型化できる」というそして付け加えるに、幸福を生成できる男性はみんな私から去っていった、らしい
我々と同じ意見であるそしてトルストイとは逆である
ーートルストイはドストエフスキーに比較すると明らかに退屈な文章で翻訳家のアタマが悪いのかもしれないが尋常ではない退屈さであり伝わってくるのは、トルストイは心底セックスにしか興味がない人間だということであってそれと比較するとフロイトはなんとも地味で正常な人間に思えてくるくらいだ
適切なナースのいない、どうしようもなく退屈な当直の夜がなかったら、私だって読まなかったに違いないと思う読んだけれど何が面白いのか文章そのものには興味がわかずどうしてこんなにつまらないものを書いて、こんなにも読まれているのかという点でトルストイという人間と、世間の人間とに、興味を持っただけだった
ーーいま私は老人になって、明らかに不幸は似ていて必然的で類型化可能であり幸福はさまざまで偶然で類型化できないと感じているこれが逆・トルストイの法則である
トルストイはその大作の最初の一文からして明らかに間違っていたと私は思う
ーー池田信夫氏の「物事を正しく理解している人は同じように正しいが、バカはそれぞれにバカである」についてはまことに正しいと思うので一言すると
物事を正しく理解している人は必然的に不幸になるのであってバカはそれぞれにバカで、それゆえに、それぞれに幸福になるのだ
だから池田氏の論は内容としては逆・トルストイの法則なのである
ーーこの地点にまで思い至るとトルストイの言う幸福と不幸の意味内容が問題になるひょっとして逆のことをトルストイは言っているのではないかトルストイほどの人である、仕掛けがあってもおかしくはない
すべての『X』な家庭は互いに似ている。『Xでない』家庭はそれぞれの仕方で『Xでない』。
どう見ても、逆から見ても、斜めから見ても、Xにはまさに「不幸」が代入されるべきなのだ
よく読んでみると、トルストイの言う『幸福』とは我々が言う、つまらない・地味で・変化のない・冒険のない生活であってトルストイの言う『不幸』は冒険に満ちて・派手で・変化に富み・わくわくし・どきどきすることらしい
性的局面においても、不幸で不満足な性愛は類型化できるがそれぞれに幸福だと信じているカップルまたは複数者の性愛は類型化できないくらいそれぞれである
幸福だと信じることはそれぞれの勝手であって、類型化できないこんな人達もいるんだねぇという具合である
不幸である現実については、それぞれの理由があり必然なのであって、それはある程度類型化できる
ーートルストイの言うことは「必然は似ている、偶然はお互いに異なる」と集約できる理論的にはそう解釈するしかない
必然がお互いに異なるはずはない
必然に幸福を、偶然に不幸を当てたのは、やはりトルストイの意図的なものであって人を馬鹿にした行為である本来、論理的には必然には不幸が相当し、偶然には幸福が相当するのである
ーー幸福は似ている、不幸は似ていないという場合
幸福は結局ドパミン回路であるというなら、その点では似ている不幸はドパミン回路が壊れているのであって壊れ方にはさまざまあるというだけだろう
電話がつながるという場合を考えてみよう電話がつながることに「さまざま」も「いろいろ」もない。ひと通りである。電話がつながらないのは「様々な理由」がある
電車が遅れている場合も同じだ電車が遅れない事に「さまざま」な理由はない。必然しかない。電車が遅れるなら「さまざま」な理由がある
ここで逆転して結局ドパミンが出ないということをいうなら似ているのであってわれわれはその点を必然とも類型的とも言いたいドパミンが出ない理由はなんとも類型的なのである
ドパミンが出ることに関しては結果としてはドパミン放出となるがそのプロセスはさまざまである人間の数だけあると考えてよい
そんなことでドパミンが出るのかと驚かされるがそれが人間の現実であるから仕方がない本当に心底からバカなものである
ーー風俗嬢が言う、「みんな似てるのよ」の一言はトルストイよりも重い
実際、不幸な男はみんなよく似ているしそのお相手をしている女もよく似ているそのことを観察している我々もよく似ている