神の存在を私が知ること

問題なのは、
神が存在するかどうかではなくて、
神の存在を私が知るかどうかなのだ。

知っても知らなくても何も世界が変わらないとき、
知ることには何の意味があるだろう。

こんな話があった。

盲目の人とルームシェアしているとする。
少し灯りが暗いようだったので、
盲目の人の分をこちらに向けて、
自分の周囲を明るくした。
盲目の人の周囲は暗くなったが、
それで盲目の人は損をするわけではない。
これは許されるだろうか。
盲目の人が知れば、怒るかも知れない。
許可を得るべきだと考えられるが、どうだろうか。
盲目の人が何も知らなければ、
何も言わなくてもいいのだろうか。

またたとえば、こんな話もあった。
昔、コンピュータシステムがまだ原始的だった頃の話のだろうか。
銀行の会計で、利息を計算する。
利息には多くの場合1円に足りない端数が生じる。
1円に足りない分は支払いようがないので、切り捨てる。
銀行としては、一定の利息で計算しているので、その分は暗黙の利益になる。
ある銀行員が、客に発生する、1円に足りない利息をかき集めて、
自分のものにした。
客は損をしていない。
銀行は、一応、損をしていない。
銀行員はやはり罪は罪だけれど、誰のどんな利益を損ねたことになるのだろうか。
銀行が損をしているというならば、
それは不当に得をしていたものを失っただけではないか。
本来は客の利益であり、支払いようがないから、
一時的に銀行が預かっているだけだともいえるが、
それならば、一時的に銀行員が預かっていても、いいと言えないか。
多分、いいとは言えないし、罪であるが、どのようにして罪を構成するのだろう。
もちろん、このことを知っているのは銀行員だけで、客も銀行も知らないとしてである。
銀行が知るということと、銀行員が知るということの間に、差があってはいけないということか。
もちろん内部の規則があって、きちんと処理しているに決まっているが、
理屈の上での話。

またたとえば、こんな話。
ある特殊な趣味をもつ人がいて、
人の爪に異常に興奮するとする。
いろいろな場所で他人の爪を隠し撮りする。
爪を撮影するだけなので、個人を特定することは出来ない。
もちろん、その人は個人でこっそり眺めるだけで、他に使うことはしない。
撮影された側には何の損も発生しないように思うが、
やはり罪にあたるだろうか。
もちろん、自分の爪がある場所でこっそり鑑賞されているとすれば不愉快だと思うなら、
それは個人の権利を侵害しているので罪である。
だとすれば、撮影されたことを知らなければ、
損害は発生しないのだろうか?

もう少し複雑にして、
風景を撮影しようとして、
携帯電話に附属のかめらのシャッターを切ったところ、
とても魅力的なネコの尻尾が映っていたとする。
その人はそのネコの尻尾を携帯の待ち受け画面に使っていたとして、
それは罪だろうか。
損害賠償するとしていくらにもならないから考えても仕方がないというのも現実であるが、
原理的にどうだろう。
偶然にでも写ったものを鑑賞してはいけないのなら、
偶然にでも写らないように防衛する義務があるだろうか。

結局、私が知っても知らなくても、
神は勝手に存在または非存在しているだろう。

また、神は、私が神の存在を知っても知らなくても、
うれしくも悲しくもないだろう。