4月になって、
試験の結果をかみしめている人も多いことだろう。
試験をする側としては、選抜の結果をいま実感しているところだろう。
勉強する側は必死になって試験を目指して勉強している。
試験を作る側は必死かといえば、必ずしもそうではない。
予備校教師などは、試験を作る専門家で、
平均点いくつ、標準偏差いくつ、という明確な目標がある。
一応作って、学生の反応も見て、目標値に行かないかなと心配になれば、
事前に少しだけリークしたりして、
点数を上げたり、そんな小細工もする。
大学の先生は、問題を作る側と、出題する側、採点して合否を作る側が一応全部切れていて、
問題を作る側は、自分の作った問題が出題されるのかどうかも知ることができない。
ことによったら、プールされていて、別の年度に使用されるかもしれない。
そんな感じで、しかも、大学の先生は、高校生が何を勉強しているのかなど知ったことではなく、
一応教科書をみて、こんなことを知っているはずという前提で、
問題を作る。
それぞれ専門分野の大家だから、ある意味でいい問題はできる。
しかしそれが試験問題としていいのかは評価が分かれる。
いい試験問題には二つあり、
ひとつは学生の努力を評価できるもの、努力していない生徒は悪い点がつくもの、
もうひとつは生まれつきの頭のよさを見るもの。
たとえば、ある大学の入試問題は、これまでの努力を見たいのではなく、
生まれつきの頭のよさをみたいのだということが分かるつくりになっている。
例で言えば、数学の問題があって、
問い1が、1.2.3.の枝問に分かれているとする。
1.と2.はいままで学んだことが身についているか、どの程度秀才であるかを見る試験、
3.については、その先の才能を見る試験、というようなからくりもある。
点数配分としては、どれも各5点とすることもできるし、
2.2.10くらいに配分することもできる。
何を評価したいかによる。
またたとえば、試験問題には判別力の高い問題と低い問題がある。
みんなができるような問題だと、間違えるのは、ケアレスミスと考えられ、
そんなものを採点しても、仕方がない。不注意な人を落としたいのではない。
みんなができない問題ができたとして、
その人は才能があると決めていいかも、問題である。
まぐれかもしれないから。まぐれ当たりに点数を配って、入学させて、
二度目のまぐれを待つのは愚かなことだ。
だから、みんなできる問題と、みんな間違う問題は、いい問題ではない。
不注意とまぐれをチェックしているだけのよくない問題である。
よく努力した人について判別力の高い試験問題というのがある。
これはプールしておいて、時々使う。
過去問をよく研究していてもらえば、できるはずであって、その努力を評価する仕組みである。
この種の問題は、高校の定期試験でも
取り上げられているはずで、勉強していれば、できる。していなければ、できない。
たとえば、クエン酸回路のこととか、脳神経の番号とか、そんなことは理屈も何もなくて、
しかし、覚えていなければ、その先の話が通じない。
また、その先のことを話し合っているなら、自然に体得されるもので、
特に覚えるこつなどなくても、覚えてしまうものだ。
つまり、その先のことを考え、議論する習慣があれば、身についているはずのことを、
もう一度確認してみる類である。
英語で、negotiationという単語の意味を知らないで、その先の議論はできないだろう。
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もうひとつ、普通の論理を常識的に推論できる能力を試す試験がある。
これも生まれつきのもので、鍛えようもないものだ。
勉強できるのは、その手前の、道具立てまでだ。
英語でも、このitは何をさすのだろうかという話は、
ネイティブでも、頭が悪ければ間違えるし、
論理的思考ができれば、正解できる。
頭の中に常識的な論理が組み込まれているか、見ている。
数学はその典型だし、
国語も、その方面の能力を実は見ている。
空想力豊かな人を選別しているのではない。
特別な才能のあるひとを識別できる試験というものが
概念的には考えられるのだけれど、これはうまく行かないことが多い。
数学難問集にのっていたり、エレガントな解答求むのようなものになるが、
それはもうその道の有名人であり、
なにもわざわざ入学試験で振り分ける必要もない。
大学に入らなくても、個人的に入門してくれてもいいし、
本格的な研究は院に行ってからだから、そのときに入門してもらってもいい。
論理的思考は生まれつきのもので、もう仕方がないと思う。
本能のようなものだ。
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したがって、お勉強というものは、
論理的思考に必要な道具立てを一通り学ぶこと、
そして常識的論理的に考えられれば、さらに一段高い点数が取れること、
それだけだ。
みんなができない問題を解けば偉いというのは誤解だと思ったらいい。
約半分が間違う問題をきちんと正解できて、
半分の人がよく間違う理由も知っている、
それが賢い人だ。
正答率50%の問題を20問中18問正解するとすれば、
どのくらい偏差値がすごいことになるかは、想像がつくだろう。
逆に言えば、正答率50%の問題が解ければいいだけなのだから、
易しいことなのだ。
なにも、ガリレオ・ガリレイのように、
「それでも地球は回っている」と
カトリック教会を相手に回して闘うことではないのだ。