性愛と利他主義

人間というものは
私にはどうも二階建ての家のように見える

一階部分が個人としての建物で、自己愛が住んでいる。
12歳で完成する。

二階部分は種の保存のための建物で、性愛が住んでいる。
男と女になってから二階建てになる。

利己主義や利他主義はどの辺に住んでいるだろうかと考える。

利己主義はどちらかと言えば自己愛部分に住んでいて、
自己の保存に便利だと思う。一階に住んでいる。

利他主義は多分、性愛部分と関係していて、
種を保存したい欲求、もっと物質的に言えばDNAを保存したい欲求と
つながっていると思う。二階に住んでいる。

性愛の領域でも
自分だけが満足すればそれでいいという人は基本的に
自己愛を生きている人で自己保存のために生きている。
一階部分でセックスをしている。

相手を満足させないと気が済まない人は
利他主義を生きているわけで、
隣人を幸せにしようとしている。
二階部分でセックスをしている。

他人に尽くしたいという利他主義は
利己主義から見れば変な欲求であるが
他人に尽くすことで遺伝子が保存されることになるので
それはとても合理的な行動である。

というように考えれば
相手に尽くしたいと思う性愛と利他主義は同じ路線の上にあると考えられる。

利他主義は宗教的にもとても高い境地なのであるが
私が思うにそれは性的な脳回路とつながっている。
インドの神々がエロティックなのはこの回路のせいだと思う。

性のシステムは
しばしば資源分割の理論とつながり、
縄張りやえさや水の確保、簡単に言えば財産保全の仕組みと一体に
説明されるのだが、
それは表向きのこと、たとえば名字と相続のことであって、
実質のDNAのことで言えば、
性愛-利他主義の回路の話のような気がする。

ヨーロッパの女性の中には、
何人も子供を産むのだから、
たとえばの話、なかに一人くらいは
神父様の子どもを混ぜてあげてもいいという人もいるようだ。
カトリックは強い。