とりあえず間に合わせたものが人生の重要な部分になることも多い

韓国小説「懐かしの庭」。

主人公は、長い収監生活を終えて、出所する。その際に、私物を返却される。財布があり、その中には小さな写真が入っている。女の写真である。

出所してから女を訪ねる。そして思い出す。
それは逮捕される直前の情景である。あわただしく女に別れを言う。女が本に挟んでいた写真を主人公は手に取り、これをくれないかという。女は、何もそんな写りの悪い写真でなくてもというが、とりあえずその写真しかないので、持っていってもらう。これが逮捕の直前だとは知らず、そしてもう会うことはないのだとも知らず。
男は記憶の中で何度も反芻する。その時の女の表情、身につけていたもの。たとえばスカート。

そのとき手にしたとりあえずの写真が、最後の写真になったのだった。そして獄中で何度も主人公を慰めた写真だった。

人生にはそんなことがある。
とりあえずと思ったものが人生の重要部分になったりするのだ。
いま適切な例を思いつかないが。

たとえば仕事がそうだろう。
完全に自分の計画通りの仕事というものもないものだ。
これから先いろいろなこともあるだろう、
だからまだ確定とはしないで、とりあえず、この仕事をしてみよう、
そんなふうに思って始めるものだ。
ところが、えてして、その偶然に始めた仕事が人生の最終の仕事になったりするのである。

例えば異性もそうだ。
この人こそ生涯の人、私の運命、そう心に決めて始める人もいるだろうが、
たいていの人は、よく分からないながら、恋愛の練習になるかもしれない、
そんな程度の気持ちで、恋愛を始めるものではないか。
そんな気持ちで始めた恋愛は長続きする要素があるもので、
結局、人生の最後まで連れ添ったりするのである。

こんなことを考察するのも、
人生の半ばを過ぎてからのことだ。
間に合わせと思ったものが、実は間に合わせではなく、
人生の内容そのものだったのだ。

そのようにして人生の時間は積み重なる。

小説は上巻下巻に別れていて、上巻読了のあと下巻を読みたいのだが、書庫の中のどこにあるのか見つからない。どこかにはあるはずだが。
もう一冊買おうか。図書館に借りに行こうか。