ファン・ソギョン著 「懐かしの庭」 岩波書店 2002年6月19日
現在品切重版未定
についての話になった。
イム・サンス監督で映画になっていて、解説にはこうある。
1980年代を舞台に軍部独裁に反対し、逃亡生活を余儀なくされた運動家ヒョヌ(チ・ジニ)と田舎の美術教師ユニ(ヨム・ジョンア)の17年間にわたる深い愛情について描いている。
人間を信じ、よりよい世の中の実現を信じ、
自分こそその力になろうと考えていた人々がいた、
確かにいた、
そのことは今私に強いメッセージとなって響く。
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先日来、リバタリアンについていろいろと初歩的なことを書いた。
たとえば、次のような反論がある。
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自由経済とか市場原理とか言いながら、
新自由主義の実体は強者のカルテルである。
一握りの米国資本による「計画経済」であり支配そのものだ。
健全な資本主義社会を作れば個も全体も幸福になれるというような
安易で楽観的な認識を持つことはできない。
個々が資本主義のエートスを内在させて近代人として勤労に励めば、
それで個も全体も予定調和的に福祉が実現するという前提の社会ではない。
資本主義はあくまで新自由主義として暴力的に個に迫り、
没落を強制し、富を一部へ、さらにごく一部へと偏在させ、
没落層から税収奪を強行する。
消費税はその典型である。
市場原理は各国各自の自由な競争ではない。
最初から米国資本と米国人に有利なルールが仕組まれている。
グローバル資本主義の中で日本人が成功するということは、
生き方として米国資本の奴僕となり、植民地支配の代行エリートとなること以外にない。
日本の中産層は没落崩壊して、
プロレタリア化したマス大衆の日本人の生活周辺に実在するのはファミレスとコンビニなのだ。
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それはそうかもしれない。
リバタリアンの世界観は実に荒涼としている。あまりに寂しい。
上記のようなリベラルな立場は、やはりわたしにとって「懐かしの庭」である。
「懐かしの庭」には今のところ、
枯れ草しか生えていないけれど。