真理絶対主義と真理相対主義
真理というのは人間がどう考えても考えなくても元々そのようにあって今もそのようにあってこれからもそのようであり続けるもの
人間の知性はそれにだんだん近づいていけるとするのが
真理絶対主義
人間の知性は真理には近づけないだろう
むしろ個々の文化の枠組みの中で、しかもそれぞれの発達段階の中で、
相対的にのみ真理であるというのが
相対主義
たとえば哲学科の先生も倫理学科の先生も
肺炎になると抗生剤の点滴を受けて
高血圧には降圧剤を飲み
そのようにして生きていながら
なんとなく科学に冷たいのはなぜなのか不思議である
科学というのは真理絶対主義
先日のノーベル賞でも理論屋と実験屋がいて
理論屋が理論を組み立てて実験屋がそれを実際に実験で検証して
それが確認されてからノーベル賞が与えられる
何が科学的理論に適格であるか、それが真実であることを確認するにはどのような手続きがあればよいかについては一応の了解事項があり
それに則って真実が積み上げられる
たまに間違うこともあるがそれにも理解できる理由があるのであって
人間は自分たちの理性を信じていいと感じられている(やや楽観的に)
科学は日々絶対主義の体系を築きつつある
その典型は大きなものでは天体力学とか小さなものでは素粒子論とかになるのだが
規模が桁外れになると人間の常識がなかなか通用しないので直感とは、ずれた感じになる
人間の直感がちょうどうまく当てはまるのがニュートン力学であり、
偉大な成功であり、なにしろ微分法という数学上の魔法のような操作が
現実世界の秘密と関係していたのであるから
もう興奮してしまう
わたしはこの興奮を高校生くらいを対象にして何度でも教え歩きたい気分である
実験できる領域では、いろいろな意見が出たところで、
考えを整理して、実験でこのような結果が出たらどれが正しいだろうというようなことになる
実験できない領域については
理論ということで留保がついている
最近の遺伝子研究のようなことは
いずれ誰かが見つけるにきまっているはずのものを
先陣争いをしているだけで特に知的な興奮はない
ただ特許の関係があるのでお金があるうちに特許を取ってしまおうとしているだけだ
先行者利益の確保である
真理絶対主義でいうと
先進文明と後進文明は絶対的真理への近さによって測定されることになる
そして時間がたてば理性を備えている限り
必ず絶対真理に近づくという考え方になる
物理学はそのような営みであって、
最終的には神なしで全世界をすべて説明したいと願っている
しかし神学の側では、物理学がすべてを説明したとしても、
神がそのような物理学を用意したのだといって、
神を物理学の上位に置く世界観を提示できるので
何も困らない
むしろ物理学がすべてを説明した時点で神学とほぼ対等に話ができるといった程度である。
ニュートンに代表されるような物理学的世界観の影響力は大きかった。
当然自由意志の存在は疑問が持たれ、
ひいては安易に無神論が言われたりした。
しかしもちろん実験的な裏付けがあるわけではなく、
無神論を言うに当たってもまだまだ神学的領域である。
無神論を神学的に言ったのでは説得性はない。
真理絶対主義では暗黙の内にヨーロッパ文明が先頭であることが前提とされ
キリスト教が先頭であることが前提とされるようだ
アメリカが民主主義と自由を普遍的真理だから全世界に広めるなどと公言しているのもこの流れである
プラトンのイデア論とか遠く離れてドイツ観念論なども、
人間の外に客観的絶対的真理があり、
人間はそれをどのように知ることができるか、どのようになったとき知ったと確信できるかなどについて議論された。
読んでも余りよく分からない議論は、結局できの悪い議論なのだと考えて差し支えない。
超越論的直感などというのであるが、結局、理性はそれが真実であることが「超越的直感によって分かる」というのであって、まともな議論ではない。
相手にしなくていいし、最近は誰も話題にしない。
そんな議論が分からなくてもよく生きられるし、
せっせと働いた方が幸せになれるからだ。
現実に医学が世界の貧しい子どもたちの命を救っていることは大切だと思う。
哲学も大切だとは思うが。
わたしの考えは真理絶対主義で人間は間違いながらも真実にだんだん近づいているのだろうと思う。
宗教などどちらが正しいのかという議論になる。頭のいい人たちは、宗教的真理相対主義をとっていて、富士山に登るのはどちらの口から上っても、頂上は一つだろうと説得する。
各宗教は、登り方が違えばそれは違うことなのであって、頂上が同じだからいいというものではないという。それはそうだ。
たとえば、悪の道を究めて善を悟る方法があるとして、それがいいこととも思わない。プロセスが悪い。
では各宗派で優劣を決めようという話にもなり、
昔空海が仏教とその頃の各流派を比較して論じた比較宗教学の始まりのようなものがある。
それは実験で決められないので、決着はつかないが、説明する理論はあって、マルクスにさかのぼる。
マルクスは、人間の考えというものは、人間が実際に存在する諸条件によって違うものなのだといい、それを下部構造が上部構造を規定するといった。
風土を書いた和辻哲郎とか風土がどのように人間の精神に影響しているかということで、一種の、下部構造を通して上部構造を理解する試みであると言える。
たとえばもキリスト教内部でも、ユダヤ教、原始キリスト教、カトリック、そしてその内部の変遷、異端派との戦い、プロテスタント、新宗教、等々、時代によってあらゆる動きがあった。
これをただ次第に進歩しているととらえれば新しいものほど真理に近いことになりそれは暴論に違いない。
「なぜそれらの宗教が起こり、廃れたか」を説明することができるので、それは、人間の暮らしがどのような条件にあったかを考えればいいというのである。マルクスは生産関係というような言葉を使うのだと思うが、人間がすぐ死んで祈るしかなかった時代、食べ物もなかった時代、食べ物はあったが殺し合う時代、伝染病が蔓延した時代、鉄器が成立、食料の保存、農耕の開始、貨幣経済の開始、奴隷制の開始、税金の仕組みの開始と変遷、荘園の成立、そのような下部構造の変化と精神構造の変化を関連づけて、主に下部構造の変化に応じて上部構造は変わるものなのだというのが史的唯物論なのだと、史的唯物論のきわめて一面を切り取ってもいいだろうと思う。
批判されているのは、そうだとすれば、生産関係というものは、第一次産業革命など、画期的な構造変化を遂げているわけで、精神構造はその後を追って変化するしかなく、実に無力で自律性のないものといわざるを得ないことになる。そして実際そのようだということになる。
アメリカがグローバルスタンダードだとか他人を高飛車にテロリストだと指定したりするのは、こういった視点が根底にある。あるいは、こういった視点を暗黙の内に利用している。
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こうした一連の大きな流れに逆らって出てきたのが相対主義的な考察である。
構造主義の人たちなどは世界の人々のいろいろな生活を調べると、単に発展段階としてくくるには無理なほどの、膨大な細部があるのであって、ヨーロッパ近代理性主義と拮抗して存在するに足るだけの中身があるのだと主張して、それは説得力もあり、何より、偉そうにしていたエスタブリッシュメントたちをやり込めるのに利用された。
簡単に言えば田舎の人たちに喜ばれた。ヨーロッパ近代理性主義は何しろ極端に自分中心主義なので、たとえば黄色人種が何か言っていても、オリエンタリズムであり、理性の範囲外の神秘主義なのであった。時間がたてば西欧に追いつくだろうと思われていただけだ。それが、ヨーロッパ近代理性主義に対してのプロテスタントとして、構造主義的な論調は利用され、日本人などもややそれの方が都合が良かったと見える。
もちろん、中央アカデミック論壇は良き伝統を続けていて、特に動じることもなく、それらの田舎ものの珍しがりを眺めているのだ。
地方がいいとか縄文時代がいいとか、田舎ものは酔っぱらっていうものである。中央穏健派は特に反対もせずにいわせておく感じだ。
これは簡単に言うと、世界観に優劣はなく、それぞれ独自でまとまりがあるものであって、それぞれにいいというものだ。たしかにうちのおばあちゃんは、あまり勉強をしなかったが、自分の世界観を整合的に過不足なくまとめ上げていた。なぜ生きてなぜ死んで死んだらどこに行くのかはっきり納得していた。むしろ我々の方が何も知らないのである。
ある特色ある原始的文明が、外部の文明と接触してどのように変化するのかも詳細に報告されている。おもに富の分配と性の統制が軸になっている。輸入品と女性を交換したりしてびっくりしている。
比喩的に言えば、文化は、球の表面を任意に分割する行為であり、どのように分割しても、あまり変わらないだろうというものである。
もう一歩比喩を進めると、事柄を脳のどの部分で処理するかは、文化によって任意であり、脳の処理能力がさして変わらない以上、機能をどのように分割してもさして代わり映えしないことになる。
ある方面で細かく考えている人たちは、別の方面では簡単に済ましておくしかない。脳の情報処理能力には限度があるから。