山月記 中島敦-3 賞賛を求める

 袁サンは部下に命じ、筆を執って叢中の声に随(したが)って書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡(およ)そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁サンは感嘆しながらも漠然(ばくぜん)と次のように感じていた。成程(なるほど)、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処(どこ)か(非常に微妙な点に於(おい)て)欠けるところがあるのではないか、と。

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思わせぶりな書き方であるが、何が欠けているのか

はたして何が欠けているのか

たぶん秀才故の孤絶と自負、そして共感性の欠如

この人が忙中閑ありの態度でのぞみ、人生の体験を蓄えていけばおそらく第一流になったと思う

しかし多分時代が移り人性が移れば欠如は欠如ではなくなるだろう

だから李徴も気にしないで悠々と作品を作り続ければよかった

第一流かどうかなど気にしても仕方のないことである

そのように割り切れることが秀才の孤絶としては必然である

大衆の心をつかむのは二流であり、大衆に先駆けてしまうのが第一流であるから
理解されないのは必然である

自己愛性の心性は賞賛を求めるからそのように割り切れないことになる

まったく李徴は自己愛の方程式通りに屈折しているのだ

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専業作家というものはえてしてこのようになりやすい。
書く技術は持っているのに、書くことが何もないのである。
書けば人を納得させるものは書ける。
しかしそれは経済的な動機であって、
内発的な動機ではないのだ。

ましてや文学者として成功して豊かにもなりひとかどの文化人として処遇されてもいるとき
書斎を公開して万年筆やカメラの手入れの蘊蓄を語るとして
やはりここにも李徴の声が響いているのである。