春は、あけぼの。

春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。

意味は、
春は曙がいい。次第に白んでいくと、山際の空が少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているのがいい。
こんな感じ。
しかし、原文の調べと色彩は現代語では失われる。

あけぼのは、
夜がほのぼのと明ける頃。夜空がほのかに明るんでくる頃。暁(あかつき)の終わり頃。ほのぼのあけ。しののめ。
と辞書にある。

あけぼのいろは黄色を帯びた淡紅色。東雲(しののめ)色。

あけぼの染めは
紅・紫・藍(あい)・鼠などの色を、着物の上へゆくほど次第に濃く、曙の空の色のようにぼかし染めにしたもの。裾(すそ)の部分は白く残し、友禅模様を描くのが通例。朧(おぼろ)染めに同じとも。
dawn; daybreak.とある。

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なるほど。

わたしとしては、春の時期に、あけぼのの空を見る女性なら、
多分、夜通し起きていたのではないかと思う。

比較対照としては、やはり家持がよく、この人は、
うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり 心悲しも ひとりし思へば
なんていうように、
昼から憂うつである。

清少納言は、多分、夜は夜で、楽しみ、
あけぼの時になって、山際を見つめ、
それを叙景する。
スナップショットだけれど、
そんな時間にそんな場所で何をしていたか、分かる仕掛けなのだと思う。

夜通し過ごして、その果てに夜があけて、
太陽が昇る前に、空の色が変わる様子を、
二人で眺める。
それは楽しいことだ。

たとえば江ノ島を中心して言えば、
夕暮れが楽しいのは、鎌倉側で、
朝焼けが楽しいのは、茅ヶ崎側である。

刻一刻と表情を変えるのは、
空の様子であり、
それを見ている二人の関係である。

冬は、つとめて。
と書いていて、
夏は、夜。
秋は夕暮。
だから、あまり眠るタイプではなかったのではないだろうか。
多分、夜行性。
夕暮れ、夜、あけぼの、早朝というわけで、
コンビにもなかった時代に、
こんな時間帯を生きられるのは、
宮廷の女性たちだろう。
8丁目にたくさんいる女性たちと同じ時間帯を生きているようだ。

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この感受性のあり方は、
躁うつ病圏のもので、しかも、すこしだけ躁的、
双極性障害Ⅱのタイプに近いと思うが。

この時代は、統合失調症圏の人たちは、
だいたい出家していたのではないかとも思う。

宮廷にいるのは、多分、双極性タイプの人たちだろう。

パーティをしても、中心部にいて
わいわいがやがやうるさいのは
躁うつ病圏の人たちで、
壁の花になって静かにしているのは、
または宇宙と交信しているのは、
統合失調症圏の人たちである。

宮廷はパーティの真ん中で、
周辺に分布するお寺は、パーティ会場の壁にあたる。

京都でしばらく軽躁を生きてみたいものだ。
すこしははしゃぎたい。