覚醒の一瞬

谷川俊太郎の断片

八月の海岸、太陽は烈しく輝き、少年たちの腿は灼けている。子供たちの遊ぶ声、沖にひらめく旗、私は一瞬の隙を見て、素早く女に接吻する。女の唇は塩からく、ぬるぬるしている。女は人が見ているといって怒り、私はしたたかに海水を飲まされる。その時、私は自分が世界と共に寝ていると感じる。世界はその時完成し、私の生も完成している。だがそれは数瞬の間だ。女が私にむかって笑いかけ、〈私を愛している?〉と訊ねる時、私と世界との間の短いオルガスムスは終わってしまう。

この瞬間について、覚醒、完成、本当の時間、至高体験、悟り、いろいろな言葉によって、
いろいろな面から光を当てることができる。

比喩を用いるとして、
あるいは情景を描くとして、
人生のいろいろな年齢、いろいろなホルモン状態、によって、
適切な言葉があるはずだ。
若いならば性的な情景は特にふさわしい、
老いてからならば痛切な別れの場面でもいいし、
死に直面する感覚でもいい、
あるいはもっと日常的な風景でもいい。
そうした場面を提示することによって、
私は覚醒の感覚に導かれる。

覚醒は、
日常生活を反面で否定する。
生活のための妥協である。
本物の影でしかないと。
しかしまた一面で日常生活が最終的に覚醒をも含んだ、
最終的に唯一の価値あるものとも、思える。
つまらない日常の反復動作の中に、
限りなく懐かしいものが宿っている。
そのように発見することで大きな肯定の感覚が得られる。

覚醒は瞬間のもので、
続いても、短い。
その点で、性的感覚に類似している。
持続させるには宗教方面でのいろいろな方法があるが、
自分としてはそこまで必要とも思わない。
できるなら、必要な時に覚醒の感覚に入りたいと思うが、
現状ではそこまでは至っていない。
むしろ、不意に与えられることが、感謝の感覚につながっている。
自分の小ささ、切なさの感覚につながっている。