江戸時代、長屋の住人は、宵越しの金はもたねえなどといって、
気っぷのいいところを見せた。
粋だねえと声をかけられて、
やせ我慢を通した。
それもいいことだったろう。しかしそれは田舎の次男坊が、
長男が無事成人したので放浪の身となり、江戸までたどり着き、
そこの長屋に住み着いて、日々の給金を食いつないでいく生活になったからであって、
もし家族がいて守るべき墓があり、大家族の中での大黒柱となれば、遊んでもいられないはずだ。
二宮尊徳の節約と勤勉はまだ後のことで、江戸では年が若いこともあり、家族がないこともあり、しかも先祖代々の土地もないこともあって、むしろ身軽に虚無的に享楽的に生きられた。
それをポジティブにとらえるかネガティブにとらえるかは立場による。
昔の構図は上のような感じだったと思う。
捨てられた子供たちの捨て鉢の遊興。
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最近の新聞の投書欄には、
地主や資産家の子どもは土地に縛り付けられ、
それ以外の資産のない階級の子どもは東京に出て、
文化的で進んだ文化に触れて進んだ教育の機会も与えられる。
これは不公平ではないかという意見が載っていた。
この不公平があるから、東京一極集中が進むとも書いてあった。
だから地方に医者はいなくなり、みんな東京に住みたがるとの意見だ。
田舎の大地主や殿様の末裔よりも、
東京の貧乏長屋に住んでいた子弟たちの方がずっとリッチで文化的になってしまった。
今の日本社会の地域間格差は、個人の能力や努力によるものではないし、
訂正不可能な絶対的レベルのものだ、といった意見。
東京と地方の格差ということであるが、
どうして「地方の土地に縛り付けられる」必要があるのか、よく分からない。
資産のない階級の子が東京に出て恵まれた暮らしが本当にできるのかも疑問である。
たぶん、幻想だと思う。
確かに日本は政策として東京集中を続けてきた。
しかしそこがリッチで文化的かといえば、どうかと思うが。
テレビで見る東京は画面上につくられた東京であって、
生活する東京はまた別のもののようだ。
自分の子どもを東京の砂漠の中に放り出しておきたいかといわれれば、
肯定するのはためらう。