先輩は次のように書いている
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すき間産業
以前聞いたことがある言葉に「すき間産業」というものがあります。
産業の真ん中にあってこれをリードしていく基幹的なものではありません。しかし、その産業の主たる構成者の間にあって、これらをうまく結び付け、それによって全体が力を発揮していく…。
目立たないけれど、大事な「連結と下支え」を担う人たちがいます。
決して打ち上げ花火ではありません。自負も感じさせてました
すぐに思い出すのが、体にあるリンパ液ですが、勘違いしているところもあるでしょうから、専門家に話をゆだねます。
舞台でいえば、力のある脇役といったところでしょうか?
他人を下敷きにしたり、押し退けて行こうとはしません。
ある時、個人の目的の総和が社会の目的となるとなると言った人がいました。いわば予定調和の世界です。
自分さえよければ、今さえ良ければといった考えの正当化が見え隠れします。
しかし、必ずしも「Σ個人の目的=社会の目的」とはいえないのではないでしょう。
牽引車だけでなく連結機さらに潤滑油や志の共有が必要と考えますがいかがでしょうか。。
デジタルではない世界もあってよいと考えたわけです。
「目標あって目的なし」については、いずれまた。
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最近は物事や人間心理を経済学用語で説明する場合も多い
Σ個人の利益=社会の利益
といったようなことがアダム・スミスのあたりからずっと続いているようです
各人がもっとも功利的に活動したとき、社会全体は、神の見えざる手により、
最大の幸福を最大多数にもたらす。
煎じ詰めていえばこんな意味のことを
手を変え品を変え言い続けていて、ノーベル賞ももらうし、何しろ講演会を開けば説得力は一級品だし、
とにかく納得させられてしまう。
わたしも、経済学の原則はただ一つ、「人間はインセンティブに反応する」である、
と論を説き始めるフリードマンの論説にはまったく脱帽で、
100年もしたらアダム・スミスとフリードマンだけになってしまうのではないかと思ってしまう。
そんな中で、そうでもないだろうと反論していくのはなかなか難しい。
一言で言えば、野蛮である。
野蛮がはびこる中で、オプティミズムを捨てないことはいかにして可能か。
青年であることと言ってもいいのかも知れない。
また真の意味で宗教的であると言ってもいいのかも知れない。
「理性ある人びと 力ある言葉 大内兵衛グループの思想と行動」
を紹介したことがあるので参考になるかも知れない。
http://shinagawa-lunch.blog.so-net.ne.jp/2008-04-13-36