春の午後

温かくなってきたので
部屋に置いていた蘭の鉢植えをベランダに出した

遅いランチを済ませて
あまりにも心地よい太陽と風だったので
テラスカフェでしばらくを過ごす

通り過ぎる人々を見ているといろいろなことが思い浮かぶ
体格
しぐさ
歩き方
顔の色艶
周囲への注意の配り方
服装・装飾品
この人にはどんな漢方薬がいいかなとか考える
あの人に似ているなあと思いつつ
だからあの薬がいいかもと思ったりもする
純化されない経験
だんだん瞬間的にこの人は柴胡加竜骨牡蛎湯とか防已黄耆湯とか
当帰四逆加呉茱萸生姜湯とか何とか思っている

高血圧の薬なら血圧を測定して調整すればいいだけだが、
漢方薬はそういうものではない
血液検査も血圧の概念もない頃からの経験をまとめたもので
望診が大きな部分を占める。
そのほかに脈診、触診、舌診など。

精神科の薬は血圧の薬と漢方薬の中間みたいなものもたくさんある
効能書きを読んでもその真の効き目はなかなか分からない
こんなことをいう医者は時代遅れでもうポンコツだから相手にしない方がいいだろうとも思うが

自転車の乗り方について
パンフレットを見ても伝わらないと思うなあ

確定診断して
治療ガイドライン通りにすれば
分かり易いのだろう

しかしそれがすでに幻想なのである

老境に至りやはり自分の健康は気になる
自分が医者でなかったら
多分今頃からでも医学の勉強を始めたかもしれない
赤の他人の医者にああだこうだ言われるのはわたしは嫌だからだ
しかし医学を勉強して20年もしなければ、
そして患者さんを2万人くらいは診なければ、多分、
ものにはならないだろう。
そう考えるととりあえず医者でよかったような気もする。
たぶん2万人以上の新患を診察していると思う。
残念ながらものにはなっていない。

千人に一人くらい抜群のきれいさんがいて
きれいくんと歩いている

神様は彼女を選んだわけだが
その後の人生が大変なことも私は知っている
いまの幸せな笑顔を冷凍保存しておきたいくらいだ

カフェではやはりきれいさんがきれいくんと
お茶を飲んでいる
見ているとおよその対人距離が分かる
対人関係距離を微分していまプラスなのかマイナスなのかもなんとなくわかる
きれい君はなんとなく気もそぞろで
きれいさんを見つめたりはしない
最近の若い人たちの傾向なのだろうか
二人でいても話し込んだりしてはいないようで
なんとなく距離を保ちつつ存在している
熱いものがない
ラテン系のノリがない

なぜもっと強烈に瞳の力で口説かないのだろうなどと
やきもきする
しかしそれが彼らの流儀なのだろう

何のために瞳はある
何のために口はある

熱くても45度くらい
冷たくてもマイナス3度くらい。
やけどはしない。
ほどほどを心得ていて、
大人らしく振舞っている。

ふたりともきれいな身なりをしている
しぐさもきれいだ
優雅な家庭に育ったのだろう

いいことなのかもしれない
やればできるけど
しないでおいて
60%くらいで運転する
それもいいことなのかもしれない

春にはそれがよく似合う