若者は書きました
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次のような人がいます
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将来の展望が、あまり持てない
わたしは、今、時給1000円の契約社員です。
勤務時間は、大体4時間です。
保険証は、親と一緒です。
来年までに、100万円貯めて、専門学校に入る予定です。
2年間通って、保育士になる予定です。
これから約3年間は、修行のような感じです。
・・・3年も先のことを考えると、うんざりします。
3年間、目標に向かって、がんばりきれるかな?
やるしかないけど、がんばりきれる自信も、あまりない。
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これを自分のこととして考えるとなかなか大変だと思う
しかし誰の人生もそれぞれ大変なのだから、その意味では、大変だけど、前進しましょうと思う
つまり、これをたくさんの人がいる社会での誰かの出来事として読むと
若い頃はこんなことも多いだろう、むしろ事態は絶望的でもないと見える
未来があるのだからありがたいことだ
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確かに、
大変さについては、個人の側から見た場合と、社会の中の一人としてみた場合とは違いがある
先日読んだ記事では
東南アジアのある仏教国ではお坊さんの上層部が僧院の規律の引き締めに乗り出したという。
同性愛は仕方がないが口紅は禁止、くねくね歩くのもだめ、
僧衣を体にきつく巻いて体の線を出すのもだめ、というものだ。
同性愛は僧院では仕方がないというのはたぶん半数以上がそのような状態であるため、
あるいは伝統的にそうであるから、
禁止してもしょうがないとの考えらしい。
ある個人がそのような状況にあることは、それはそれで同情を禁じ得ないが
人間はそういうものだろうといえば、確かにそういうものだ
社会の中にはそういう部分もある
ちょっと話がずれているが
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それぞれの不幸があるわけだけれど
数の中にはそのような運命を割り当てられる人もいるだろうということになる
それがなぜその人なのかについては
だれも不幸になりたい人なんかいないのだから
よくよく考えると誰のせいでもなくて偶然だとしか言えない部分がある
不治の病におかされて死んでしまう人が一定数いることは理解しているけれど
それがわたしであることについては理解できないし受け入れられないという人が多い
当然だと思う
それも宗教の出発点だろうと思う
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しかし3年先まで展望があるとも読めるのだから
3年後の自分を明確にイメージして、がんばりきれるのではないかと思う。