先輩は書きました
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新新型福祉
戦後、新しい福祉概念が誕生しました。
それまでは、福祉といえば「気の毒、かわいそう」な人たちへのほどこしでした。
しかし、高齢化社会の到来もあって「誰にでも」の福祉となったわけです。
すべての人は、老います。体も不自由になってきます。お金だけではない、社会的な支援の仕組みづくりの構築が求められたわけです。障害者をはじめとする福祉対象者を、個人責任だけで整理せず、自立というキーワードも重視しながら社会のあり方を考えていこうするものだったと思います。福祉の普遍化という言葉もありました。
これを「新型福祉」と呼ぶことにします。
さて、最近ふと気づいてみると「新新型福祉」というものもあるようです。
「我々は、福祉の対象者ではない。利用者だ。」「憲法や法律で定められている権利の実現を要求しているのだ。」という人もいます。
権利意識の高揚とともにあるようです。
我こそが正義の味方だという考えもうかがえます。
思わずうなづいてしまいそうです。しかし、難しいことだと考えさせるのは、憲法や法律の表面的な理解にとどまらず、その精神はどこにいったのだろうかということです。
誰がどのように負担するのかといった問題もあります。
昔、あるお金持ちの人が言っていました。「金は出すから、黙っていて欲しい。」
以前、熱心に障害者福祉に取り組んでいた故人がいました。その人は、障害者に対してある意味で厳しかった。甘えを許さなかったようです。
その人がいつか言っていました。
「少し、おせっかいなだけです。」と。
私たちは、結局どのような社会を作ろうとしているのでしょうか。
共感という言葉が心をよぎります。
足腰のしっかりした福祉を考えていこうと思います。
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1.「貧しい気持ちから」の「施しの福祉」はやはりいい気持ちではない。
2.キリスト教的チャリティ、仏教的喜捨・布施、こんな感じならば、その人にあげるのではなくて、神様にお返しする感じかなと思う。
3.「貧しい気持ちの施し」はパワハラとかセクハラと結合する。
4.新型福祉では、与える側が無名化した。だから負担者がいいことをしているという実感がない。役所の担当者が「与えている」という権力の感覚を持つことがある。また、役所の担当者が「こんな人に与えていいことではない」という無力感や憤りを感じることもある。そのあたりは税金負担者にはフィードバックされない。その無名化が一歩前進でもあるし、問題でもある。
5.新新型福祉ではまさに上の問題がある。悪いことでもなく程度の問題だと思うが。私見では、信仰がなければ、「心貧しい制度」になってしまう。かといって税金収集の基盤を信仰とすることも出来ない。根本的におかしな話なんだと思う。
6.「金は出すから、黙っていて欲しい。」 これはすごい。
7.「障害者に対してある意味で厳しかった」というのもすごい。これはとても疲れることで、続けられないことだ。そのような良い志を全面的に無力化してしまう巨大な力があると感じる。無化の無限運動。これに抗して立つのは「力業」であって、容易ではない。ここでも、信仰の力でもなければ、続かないと思ってしまう。信仰でなくても、健全な共同体の力でもいいけれど。
8.新新型福祉については、沈黙する人が結局、賢いのかもしれない。わたしも沈黙を守る。
9.やはりお互いの顔が見える小国寡民でないと難しいのだと思う。たとえばの話、マンションに管理組合とか、住宅街の自治会とかの運営で、自主的な民主主義的な運営というものの自然なルールが身についていない人の多いこと、そして、それを教育し合う気分の全くないこと、実に顕著だと思う。賢者は語らず、愚者は得意気。自分の分かることしか理解しないからそこで行き止まり(これは当然の人間の限界なのだが)。かといってパターナリズムもまずい。
10.日本の社会は基本的に母性的でアル中的な社会だと思う。アル中みたいな勝手な人がいても、父性的な指導は弱くて、母性的な保護の方が強く働く。その社会に、西欧キリスト教的な制度を移植しても、うまくいかないはず。
11.足腰の しっかりとした 相撲取り のように すり足で 進みたいです