自分の身に降りかかった苦難はなぜなのか
そこの説明が欲しいという気持ちはよく分かる
医学はそこを説明しないのがもどかしい点でもある
むしろ前世の因縁とか輪廻とか
星座の運行とか先祖代々の言い伝えとか
その人なりの腑に落ちる説明があるものなのだということは分かる
需要があるから供給は途絶えない
宗教的思考でも高度なものからそうでないものまで様々に用意されていて
だいたいどのような人の需要にも合うように提供されている
カトリックの教義などはまさにその典型だと思う
医者は物語をしない
むしろ現代的な非宗教的物語としては
家族の絆とかそのあたりが強調されるのだと思う
最近でいえば、ドラマ「風のガーデン」や映画「象の背中」が典型的で
家族や血縁、友人がともにその死を受容するようである
キリスト教圏の医者は少しは宗教的思考に踏み出しているし
死の床には宗教者も立ち会う
しかしいろいろな宗教の人もいるし無神論者もいるので
そこは微妙な言い方をする
たとえば、死んだら天国で、亡くなったあなたのお母さんにも会えるのですよといえば
完全にキリスト教的であるが
そのようには明示的に言わないで
そうとも受け取ることができる言い方をする工夫がある
そのあたりについては
死とか死後の世界について宗教的共有観念があれば
とても楽だと思うことはある
臨死体験などもいろいろな議論はあり興味深い領域ではある
延命治療やホスピスなどは
人生観や価値観と直接結びついていて
どのような治療をいつまで続けるか考えさせられる
また脳死や移植についても考えさせられる
科学は特定の物語を採用しない
しかしそうはいいながら科学という特定の物語を採用していると批判されている
クーンやポパーの科学哲学批判であるが
そこまで厳密に言われたらたしかにそうなのだけれど
そこまで言わなくてもという共通の理解というものもあると思っている
日本の現状では死についていかに受容するか説明が難しい
生まれかわったらという言い方で語りかけるのは比較的抵抗がないような気がする
それを宗教的観念とはあまり思わないようだ
うつ病の場合にもなぜあなたがうつ病になったのかを説明することは実は難しい
聞きたいのは神経伝達物質の話ではなくて
人生のストーリーとしてなぜうつ病なのかという点なのだと理解はしているが
そこの説明は難しい
なぜその人が52歳で癌で死ななければならないのか
本人や家族の腑に落ちるように説明することは医学の立場からは難しい
がん細胞とは何かを説明することはできるが
人生と癌と死を説明することは難しい
かといってどれかの特定の価値観を押しつけることもしたくないしできない
ここはキリスト教の病院です、お祈りもします、人生観も価値観もキリスト教的ですと
いうことが前提ならばそれでいいのだけれど
そしてそれは医療伝道というものになるけれど
そういうものを求めているのではない人のほうが多い
実際、最後はお坊さんに戒名をもらう人が多い
戒名に何の意味があるのか語るのは難しい
科学は人生の意味も死の意味も説明はしない
DNAのダーウィン的生き残りがかろうじて説明になっていて
個人的にはかなり広範に物事を説明できると思うし腑に落ちるけれど
一般的でもないし
それで人々の腑に落ちるとも思えない
腑に落ちないままで死んでいくのは
二重に苦しいと思う
なかには勇敢な無神論者もいる
バートランド・ラッセル
なかには年をとったら無神論のまま死ぬのが怖くてクリスチャンになったと批判された人もいる
たとえばジョン・エクルス
腑に落ちる説明が欲しいし必要だと個人的には強く思う
その点は医学を離れて価値観の領域として個人的に探求すべきだと考えている