実在と現象

人間が赤いポストを見ていると言う時、
赤いポストは、普通に考えて客観的実在である。
輪郭がくっきりと見えるし、手に触って感覚できるし、
何ヶ月も前からそこにあるという歴史的実在の側面もあるし、
何よりも、いろいろな人に聞いても、
あのホテルの前にあるポストという名指しで通じるのであるから、
多分実在である。

でもそれはやはり「多分」でしかないのであって、
個人的に妄想しているのかもしれないし、
集団的に妄想しているのかもしれないし、
何かの錯覚が関与しているかもしれないし、
あるいは言語の習慣が知覚を歪めているかもしれない。

知覚は実在そのものをとらえることはできない。
われわれの知覚は「現象」を捕らえることができるだけである。
現象は、実在と知覚の相互作用によって発生する事態であるといえる。
「もの」ではなく「こと」に属する。

では、人間は、そのように不確かな「現象」から出発して、いかにして、
事物の普遍的法則に至ることができるのだろうか。
ある時間においての物体の運動を記述することができるのであろうか。

土台、ポストが赤いという事柄からして、怪しい。
「赤い」という感覚内容は結局主観的経験でしかないからで、
集団で共有していると思ってはいても、
異なっている可能性は大いにある。

それでも、客観的実在についてのつもりで不都合なく記述できているのは、
実際に不都合がないからである。
理論的に保証されたものではない。

幻覚妄想状態の患者さんが何かを語る時、
それを客観的実在の記録とは考えず、
主観的現実と考える。
いわばその人にとっての「現象」である。
集団にとっての共有された「客観的事実」から出発すれば、
患者さんの体験している「現象」は何かのミスなのであるが、
そうではなく、患者さんの抱く主観的世界そのものを出発点として、
「現象」を分析する態度が成立する。

客観的事実の世界からみれば、患者さんの体験している「現象」は、
単なるミスであるが、
ミスだとしても、脳全体としての体系がある。
最初の変調もあれば、その変調を訂正するための脳の働きもある。
つまり、一次性の変調もあり、二次性の反応もあり、以下、三次性も、四次性も考えられる。
そのような複雑な系列を一度に含んで脳は実在する。

そのあたりの事情を解きほぐすのが
現象学というものである。
脳の物質的解釈とも違う、
心理の解釈でもない、
むしろ解釈しない「現象」の記述である。

科学は一般に実在について扱う。
だから実験による再現性もある。
現象学では実験はできない。
感情移入でもない。
追体験という程度である。