その人もわたしも
都合のいいときだけのカトリックである
ときには聖書の話などもする
「貧しい人は幸いである」という言葉がある
多義的な解釈を許す言葉である
「心が貧しい人は幸いである」としている日本語訳も英訳もある
英語の単語は poor があてられている
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)
イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。』(40~41)。
目の見えない人、自分を小さな者、愚かな者と知る人には神が見え、
目が見える人、自分を賢い者と誇る人には神が見えない。
つまり、わたしが若い頃この言葉と接したときのように、
心が貧しいを謙虚と読み替え、
その反対を傲慢として解釈します。
学者さんも、修道院も、神父さんももっと深いことを歴史の中から言っています。
でも、わたしは一回りしてきたあとで、最初の素朴な解釈に落ちついています。
自分が正しいと思うとき、謙虚ではない。
激しい言葉で他人を責めるとき、謙虚ではない。
他人が間違っていると思うとき、謙虚ではない。
他人が過剰に甘えている、他人が過剰に依存している、そのことを許せない、
そう思ったとき、謙虚ではない。
そんなとき、「貧しいことは幸いである」を思い出す。
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心が貧しいことと経済的に貧しいことの関係は難しい。
│ │ 金持ち │ 経済的に貧しい│
│こころが謙虚 │ 少ない │ むしろ美しい │
│こころが傲慢 │ 多い │ 多い │
金持ちが天国の入り口を通るのはラクダが針の穴を通るくらい難しいというわけだ
金持ちと貧乏で同じ謙虚という言葉を使っても、何だか意味には微妙に違いがあるようでもあり、
同じように金持ちと貧乏で傲慢という言葉を使っても、意味がずれているような気がする。
だからこのあたりは粗雑な言葉ではなくてもっと精密な言葉が必要なのかもしれない。
また
金持ち・貧乏、謙虚・傲慢の二軸だけがどうして取り出されているのかもよく分からない。
人間にはもっといろいろな要素がある。
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金持ちで傲慢なら徹底的に救われず、
金持ちで自分は品行方正で正しいと思っているような人は救われないけれど、
そんな人たちは現世で少しは報われているからそれでいいのかもしれない。
金持ちで謙虚なのは残念ながら天国には遠い。金持ちであるということ自体が、謙虚の質を変質させる。
貧乏で謙虚な人は美しい。それが天国に近いのだし、イエスの苦労を減らしてくれる。
そのようでありたい。
星飛雄馬のお姉さん。
貧乏で傲慢な人は、
イエスが言っているようにイエスはもっとも悪い人やもっとも救いから遠い人を救うためにやってきた。
だとすれば、貧乏で傲慢な人たちは、金持ちで傲慢な人たちの次に救われるのだろうから、それはそれでよいことだ。
イエスの計画では結局みんな救われるのだから、何も心配しないで、それぞれの道を行けばよい。
悪人正機にも近いのであるが、ここでパラドックスが生じる。
心が貧しいとは、傲慢なことなのか謙虚なことなのか。
もっとも表層的に言えば、傲慢は貧しい、謙虚は心が豊かとなる。
しかしよく考えれば、謙虚こそが救われるのだから、謙虚が心が貧しいに対応するだろう。
反対に傲慢が心が豊かに対応するだろう。
そして謙虚な人は天国に近いとなるのであるが、
イエスはなんと傲慢な人を天国に入れるために来たのだ。
そこでは傲慢な人が天国に近いのだ。
そうなると結局心が貧しい人はどのような人なのか、誰が天国に近いのか矛盾をはらむことになる。
言葉の上ではこのような矛盾を含みながら、
しかし実際に我々が生きる場面を考えると、
なるべくイエス様に迷惑をかけないように
自分なりに考えて傲慢でもなく、自分だけが正しいと言い張ることもなく、
他人を批判は過ぎることなく、柔和に、心の貧しい様子で、生きるのがいい。
結局どんな人でも天国に行きますよとイエスは約束しているのであるから
まあまあ、あまり厳しく考えなくてもいいようだ
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経済的に貧しい人が天国に近いというのも、はずれているわけではない。
貧乏にもいろいろな問題があるが
金持ちにはさらにいろいろな問題がある
金もちと貧乏のどちらが謙虚になれるかというのも難しい問題であるが
現代日本くらい豊かになると経済条件はあまり関係ないのかもしれない
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結局、あのどうしようもないやつが天国に近いのかもしれないと思うかもしれない
イエスが愛するのは罪人なのだから となってしまうかもしれない
そのあたりも言葉のそのままを考えるのではなくて
全体の構図を頭に入れておかなければならない
あそぼ!