「仮想的有能感」と「高等遊民」とリバタリアン

夏目漱石の頃の「高等遊民」は、いずれにしてもエリートで、
能力があった人が多かっただろうし、
周囲に引き上げようとしてくれている人たちも多く、
一時的に遊んでいたとしても、結局は資産やひきで、
うまいところに収まったものだろう。

現代では、学校ではまったく有能性を発揮できなかったタイプの人たちが、
ネットの中で、「仮想的有能感」をもてあそんでいるのだという。
そのことが現象としては高等遊民とかさなる。
人生の事業として仕事に打ち込んでいるわけではない。
その日暮らしである。
仕事を通じて自己形成するというプロセスがない。
自己形成以前の自分を「本当の自分」と安易に肯定して、
批判に対しては耳を閉ざす。
リバタリアンの負の産物である。

高等遊民は、実は打算があった。
家に資産もあったし、兄弟は社長である。
妻の家も資産家である。
高等遊民は富国強兵の負の産物である。

現代の仮想的有能民は、そのような裏付けがない。
頼るのは、国家のみであり、
国家に対して、生活保護しろ、最低賃金を引き上げろ、正社員にしろと要求して、
要求のために文章を書いたり、デモをしたりする時間はあるのだ。
リバタリアンの筋書きの通り。
実際、仕事はあるし、真面目な人、才能のある人は、どこでも欲しいに決まっている。

高等遊民は生家に対して、無心したり、狂言自殺したり、いろいろとしたものだ。
啄木は友人に借金したし、借金される側も、天才に対する投資だと思っていた。
実際、啄木のおかげで、名前が残っている。

アメリカならピューリタニズム、
日本なら二宮尊徳、
こうした節約貯蓄労働の態度がまず基本路線で、
そこからの逸脱が高等遊民である。
だから本心は冷や冷やものである。
どう理屈をつけても、二宮尊徳が正しいのであり、
最終的勝利者は尊徳である。
ただひねくれているから、正しい道を歩けない、それだけのものが高等遊民だ。
人は一時的にはひねくれるから、
高等遊民の文章は、存在価値がある。古典になる。
一時的に読んで、そしていつか卒業する。
いつまでもひねくれているのは、一生の損失である。

仮想的有能民はこのような構造とは違うらしい。
ネットの中で、自分は有能だと信じているのだろうか。
コンビニ弁当で脳内伝達物質がうまく働いていないのか。

高等遊民太宰治は自分の才能が見えていたし、家は大富豪だった。
見合いをすれば教授の娘と結婚できた。
今でいえば、堤さんとか、鳩山さん、細川さん、そんな人たちが高等遊民をしていた。

高等遊民は富国強兵の軍人にたいするアンチテーゼと言えるだろう。

今、アメリカのリバタリアンに対するアンチテーゼとして、
生きる人たちが求められているのだと思う。

仮想的有能民は、リバタリアンの負け組でしかなく、アンチテーゼとして機能していない。
つまらないおもちゃを与えられて、騙されているだけである。
コンピュータと政府への申し立てというおもちゃ。
こんな奴らがいるから、この社会はダメだ、リバタリアンになろうと、
リバタリアンは誘導するのだ。

実際、投書などにも、「国にきちんとして欲しい」というものが少なくない。