相変わらずタルコフスキー監督流で、
水浸しの画面が多い。
象徴的な表現が多いので、
解説を参考にしながら何度も見なければ、
何を描こうとしているのかよく分からないと思う。
しかしその画面画面の美しさは独立した価値のあるもので、
話の内容を別にしても、魅力的である。
言葉も、すべてを言い切ってはいない。
言わずに飲み込む言葉の多いことを想像する。
この映画で、人間は組織ではない。社会ではない。
むしろ、水や草と地続きの、壊れやすい何かである。
われわれが常識として持っていて自分たちを支えている観念を
引きはがされたあとの、むき出しの人間がただ一人、
横たわっているようだ。
それこそがわれわれが死ぬ時の情景である。
映画を見ていて、ケン・ウイルバーの「プレとトランスの錯誤」を考えた。
ケン・ウイルバーは物質世界と精神世界の関係を歴史として考える時、
1.呪文や呪術で物質世界をコントロールできると夢想した時期。これが古代。
2.物質科学の時期。精神世界の現実の力はなし。これが現代。
3.精神世界が物質世界に影響を与えることができる、未来の世界。
というように大雑把に分けて、
3.の未来を語る時、理解しない人は、それを1.の古代と混同してしまうと批判する。1.の古代が「プレ」であり、3.の未来が「トランス」である。
たとえば先日読んだ「空海」の呪術体系の中に、どれ程のプレがあり、トランスがあるのか、吟味してゆく作業は、大変意味があるだろうと思う。ひょっとしたら全部がプレで、空海のいかさまぶりがあらわになるかもしれず、逆に、大変多くのトランス部分が含まれていて、人類にとっての大鉱脈を提供してくれているのかもしれない。
プレとトランスを区別することは難しいのだが、映画「ノスタルジア」の中では、
プレではない、トランスだと明確に主張する人物が出てきている。
それが狂人なのか、いかさま師なのか、天才なのか、凡人の我々には区別がつかない。
最後にろうそくは消えず、希望を残してくれる。
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宗教的人間というものは、人間本来のあり方なのか、
あるいは、神経症的なもので、現実に対する不適応の一種なのか、
このような映画を見ていると、人間は本質的に宗教的な存在であると感じられる。
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イメージの発火点のようなものがぎっしりと埋め込まれている。
なぜなのだろう。
見ているうちに果てしなく誘発されるものがある。