慰めのない不幸が必要である。

まったく執着から離れきるためには、
単なる不幸だけでは十分ではない。
慰めのない不幸が必要である。
慰めがあってはならない。
そうベイユは宣断する。

それなら世界に満ちている。
慰めのない不幸という契機は満ちているのに、
恩寵は存在しない。

またベイユは続ける。
これといってかたちに表わせるような慰めが少しでもあってはならない。
そのとき、言葉に言いつくせぬ慰めが、ふりくだってくる。

まだ不幸が足りないと?
慰めがあると?

最近の文学はすべてがゆるいと評していた人がいる。
不条理が描かれていたとしても、ゆるい。
仲間内で許容しあえるものだけを描いている。
そう語る。
慰めのある不幸だけを描いているのだ。
しかし、
解決できないものは描かないのも、ひとつの流儀ではある。
解決しようと思えば、
超越を導入する必要がある。

対立するものも、対立し切っていない。
こころとかたらだも、健康と病気も、
むしろ対立としないでとらえたほうがいいのだと、
理解ばかりが早い。
俗人の悟り方ばかりがある。