この世・都・憂き世ーーー山・山里・出家ーーーあの世・浄土

やよやまて  山郭公  ことづてむ  我れ世の中に  住みわびぬとよ
ちょっと待って、山に帰るホトトギスよ、お前に言伝を頼みましょう、私はもう世の中に住むのがいやになったと
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山里は  もののわびしき  ことこそあれ  世の憂きよりは  住みよかりけり
山里での生活は物わびしいことではあるが、それでも都でのわずらわしい暮らしよりは住みよいものだ
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み吉野の  山のあなたに  宿もがな  世の憂き時の  隠れがにせむ
吉野の山の向こう側に宿があったらいいのに、そうしたら世の中が嫌になった時の隠れ家にするのに
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この世・都・憂き世ーーー山・山里・出家・遁世ーーーあの世・浄土
という系列があって、
いやになったら、まず中間地点に、と思考したらしい
宗教が制度としてそのような中間地点を作ることは意味があると思う
しかし現代日本は宗教が「物憂し」を扱うのではなくて、医学が扱うので、事情が違う
自殺・の・ようなもの がいくつか用意されているだけでも違うし
そこから復帰することもできるようにしておけば
ずいぶん違うはずだと思う