八ッ場ダム問題

吾妻渓谷の八ッ場ダム(やんばだむ)について

民主党政権は総選挙のマニフェストに
「八ッ場ダムと川辺川ダムの建設中止」を書いていたので、
前原国土交通大臣が中止を確認し明言。
地元政治家たちに陳謝するなどの場面もあった。
ダム建設中止賛成と反対はどちらもなかなか強い論拠があり、
簡単にどちらが正しいとも決められないと思う。
それぞれに理由はありそうだ。
地域として近い人たちは、地域住民の長年の経過を知っているから、
「中止してよかった」と言う人と、「中止なんてとんでもない」と言う人とがいて、
これも決められない。
長年の経過があるので、賛成だった人が反対になったり、
反対だった人が賛成になったり、
いろいろとあり、その苦労に対して、「簡単に」選挙で決着がつくのかと
怒る人もある。
筋から言えば、国民との約束で、マニフェストとして明言し、
選挙で勝ったのだから、その「国民からの命令書」を押し通すのが正しいとも言えるが、
それは「直接民主主義」であり、
それならそうで、個別に国民投票くらいしなければ、分からないはずだとも言う。
なるほどそうで、国民は「包括的に民主党」と投票したはずで、
ここの案件に対して、熟慮した上で、全部賛成だから、民主党に投票したというものでもないだろう。
こうなってくると、間接民主主義の意義が問題になる。
すべての国民が充分な情報を元に、充分な理性を持って考えているわけではない。
間接民主主義の代議士は、
理想的な理性を備えた国民が、充分な情報を咀嚼した後に、下すであろう判断を、下すのであって、
「現実の国民」に従うのではないとの議論が昔からあると思う。
「理想の国民」は何を考え、何を欲してきたか、かなり問題がある。
しかしまた、「現実の国民」が何を考え、何を欲してきたか、それもかなり問題である。
そんなことは百も承知で政治プロセスが進むのだろうけれど、
原理的に考えれば、ますます分からない。
すべての国民にすべての情報を供給し、最上の理性で判断することはほとんど不可能である。
たとえば防衛問題や外交問題で、情報管理ができなくなる。
最上の理性とは何かの判定が問題で、それを判定する理性よりも優れた理性ではあり得ないとも思う。
おまけに感情もくみ取れとか
未来への希望も勘案しろとなると
どう決めていいのか、困り果てるだろう。
ーー
こんな具合で、最上の理性のレベルでも、問題解決は簡単ではない。
しかしまた、低次元の問題として、マスコミ報道のあり方にも問題がある。
実にいい加減な様子で、ダム中止反対とかダム賛成とか言い立てている。
国民の多くはマスコミが情報源であるし、同時に理性の導き役でもあるのに、
こんないい加減な調子でいいわけがない。
日々ますます絶望する。