アニミズムと離人症
アニミズムは宗教の古い形で
生物の本質を霊魂として
その霊魂は太陽や森や海にもあるとして
それを信仰の対象とする
太陽の霊魂である太陽神が機嫌が悪ければ日照が悪くなり作物が実らない
太陽や森や海に霊魂があるかはとにかくとして
生物と無生物の違いは霊魂を宿しているかいないかであるというのは分かりやすい考え方だと思う
生物であっても
それが死ぬときには霊魂が抜ける
霊魂は生命の本質なのである
スピリットといっていいけれど
例えば死ぬときに霊魂の分だけ体重が軽くなるという話はトンデモ科学で言われていたことだ
逆にフランケンシュタイン博士の場合は
墓から死体を掘り起こしてつなぎ合わせ
それに生命を吹き込むために霊魂が必要なのだけれど
物語の中では雷を使ったようだった
生命の源であり生命の本質であると古代の人間が考えたものである
現在ではそのような仮定的実在を考えなくても
DNAから始まるタンパク質製造のシステムがあり、
それに従って代謝を営んでいれば生物なのだし
そのような生化学的回路が働かず
遺伝子の複製も淘汰も行われないのが無生物である
生物と無生物の間にはもちろん物質としての違いはなくて
ただ生化学的な代謝が行われているかどうかの違いである
生物も徐々に秩序が崩壊して無生物に至る
しかしそのプロセスは、「霊魂が出て行く」ように一気に起こるものではなくて、
各細胞の単位で徐々に進行して死が全体を支配するに至る
各細胞の単位で徐々に進行して死が全体を支配するに至る
アニマ、アニムスはアニメージョンでも分かるように動くということ、変化するということも
大切な要素であろう
*****
生きていると表現するとき
生物が生きていることの他に
芸術作品が生きていると言うことがある
この音楽演奏は生きている
この絵画は生きている
本来無生物であるものに
あるいは本来生きているかいないかが問題ではないものに
どうしてそのような比喩を使い
その比喩が広く受け入れられているのかと言えば
ここでは日常生活レベルで顔を出しているアニミスム的思考があるのだと言うことになる
ものの実感と現実のものとの間に
微妙な乖離が生まれて
いつものそのもののもっているはずの実感を超えて飛び出してくる実感があった場合は
「生きている」という表現が当てはまるだろう
絵が生きていると言えば
その絵が表現しているものの実感が
一段と飛び出してきて迫ってきていると言うことだ
それと反対の状態が精神医学で言う離人症である
離人症は離人症として単独で症状を形成することもあり
統合失調症やうつ病などで生じることもある。
実感が急に乏しくなる状態と実感が急にあふれてしまう状態と、
これは連続する反対の現象である。
これについては http://shinbashi-ssn.blog.so-net.ne.jp/2008-05-11-1 ここで説明がある。
時間遅延理論として説明している。
*****
そうしてみると、古代宗教の形と言われているアニミズムは
離人症の反対のいわば過剰実感症に近い形と考えられる。
山に霊魂が宿っているといい
次には家にも霊魂が宿っていると言い
まったく無生物にも霊魂の宿りを感じるようになる
そして霊魂はものそのものとは別に行動することができて
事情があればものから出て行ってさまようこともできる
そのような思考によって、生きていることの実感を広く説明可能なので
これは便利な表現法であり思考法である
作品に魂を入れろ
などという言い方は親しみがある
音楽演奏が生きているというのも
分析的に見れば
音の長さと音程を微妙に組み合わせているに過ぎない
しかしその全体的な印象を「生きている」と表現する
*****
その全般的な逆の事態は
音楽が死んでいる
彫刻に魂が入っていない
というような事態であり
うつ病の人間を他人から見れば
そこに体があるが魂がほとんど抜けている状態と考えられる
魂が抜けているではいかにもまずいので
魂から生気、活気、精気が抜けているという意味で
ヴィターレな・生機的な抑うつと呼んだ
このあたりが伝統的な意味でのうつ状態の中核である
*****
そのほかにうつ病は精神病であるから妄想を伴うことがあり
うつ病の三大妄想と言えば
貧困妄想、罪業妄想(重大な罪を犯してしまった)、心気妄想(重大な病気になってしまった)である。
現代のうつ病の定義にはこのような要素は入っていない。