人間は自分のしたとってもひどいことは忘れるようにできています
だから平気で生きてもいられるわけで
まじめで敏感な人は損をします
自分は誠実だとほぼ全員が思っています
他人は誠実さの点では自分ほどではないと考えている人が
多分半数くらい
おめでたいものなんです
ーー
これは原理的に無理もない理由があります
他人の痛みが分かるなら
そもそもそんなひどいことはしないのです
ひどいと分からないからするのであって
そうなると自分はひどいことは一つもしたことがないという記憶になります
ひどいことだと思ってひどいことをする人も少ないものです
ひどくないと思ってひどいことをしているのですから
実際ひどいという自覚は生まれようがありません
ーー
自分はひどいと自覚すれば
自殺したくなったりしますから
それもいいことなのかどうか分かりません
誠実な人が損をすることは確かです
逆に言えばみんなほどほどにずるいから生きているわけで
たとえばマンションの管理組合の会長みたいに
総理大臣にくじでなるとして
それはもう当人の忘れていたようないろいろが出てくるはず
生きているということは他人を傷つけることでもあるわけです
幸いにして総理大臣になってあれこれ言われる可能性は
ゼロなので平気で生きていられるわけです
ーー
たとえば
先日、菅谷さん冤罪事件で
マスコミが最高裁での仕事の経験のある人にインタビューしていました
そのなかで、自分は間違っていない、悪いとも思わない、と言うようなことをいうわけです
自分たちは検察の提出した証拠を見ているだけで
それがどうしたこうしたは
自分たちの責任ではない
裁判所が自白を強要したのではないとか
というような発言だったと記憶しています
断片的に取り上げても不公平ですので、その点は留保が必要ですが
わたしが見かけた範囲ではそのようでした
マスコミとしては
そのような態度全般が冤罪事件に結びついているのだと思って聞いているのに
まさにその問題の態度を反復しているのです
自覚がないからまたやるだろうと
裁判官なら判断しそうなところ
ーー
この「自覚」が、どのようにして生まれるかは、
なかなか難しい
世界を解釈するときに
地動説でも天動説でも途中までは説明できます
よほど明敏な人でなければ
天動説では無理があるとは気付かないわけです
現代で言えば
人間に自由意志があるなどという確信です
刑法の表面的な基盤でもあり、道徳の表面的な基盤でもあり、
よく理解するにはずいぶんと時間がかかるだろうと思います
裁判所は天動説で間違っているとマスコミが言っているのに
裁判所は相変わらず
我々は天動説を守る機関なのだからそれでいいじゃないかと言っているわけで
話がかみ合わない
ーー
個人のレベルでもそんな感じだと思います
そもそもそんなに悪いと思っていないからやってしまうわけで
それをあれこれとがめられても
驚いたり人のせいにしたりします
挙げ句の果ては、言ってくれた人を非難したり
そんなことが多いわけです
しかたないですね
そんな中を、なんとか生きていくのが人生です