タマネギ型と電車型。

◎ぼくが買ったネコが逃げた。
◎ぼくは君が作ったどら焼きを食べた。
◎わたしは弟が生まれてうれしい。
◎ぼくが食べた粒あんは最高においしかった。(主語にかかるもの)
◎弟はわたしが買ったドーナツを食べた。(修飾語にかかるもの)
◎ネコが見つかってあたしはうれしい。(述語にかかるもの)
これは小学校の国語で「複文」というものの練習の文章です。
大江健三郎的芸術文章はこれを複雑にしていけばなかなか味わいのあるものになります。
しかし、他人に、誤解なく、意味を伝えるためには、必要のない限り、単文主義で行こうと私は思っています。
最近のtwitterとかショートメールでも単文主義です。
書き換えてみます。
◎ぼくが買ったネコが逃げた。→僕は猫を買ったのに、猫は逃げちゃった。
◎ぼくは君が作ったどら焼きを食べた。→君はどら焼きを作ったよね。僕が食べた。
◎わたしは弟が生まれてうれしい。→弟が生まれました。わたしはうれしい。
◎ぼくが食べた粒あんは最高においしかった。(主語にかかるもの)→粒あんを食べました。最高においしかった。
◎弟はわたしが買ったドーナツを食べた。(修飾語にかかるもの)→わたしがドーナツを買ったのに、弟が食べちゃった。
◎ネコが見つかってあたしはうれしい。(述語にかかるもの)→猫が見つかりました!あたしはうれしい。
いずれも誤解なく、伝えられる。
これは翻訳をしているとよく分かる。
わたしの場合の翻訳の原則は、頭から、音声で聞いて、意味のまとまりが分かるように書くこと。電車型という。
◎弟はわたしが買ったドーナツを食べた。
だと、いわゆる翻訳調であって、頭が疲れるけれど、
→わたしが買ったドーナツなのに、弟が食べた。
とすれば、混乱はなく、頭は過度に緊張せず、翻訳も、上手にできる。
ここで「なのに」を省略して、
→わたしが買ったドーナツを、弟が食べた。
とすれば、完全に翻訳できる。
頭の中で、わたしはドーナツを買った、というまとまりができて、一区切り、
そのあとで、弟はドーナツを食べた。というまとまりが出てくる。
電車がつながるみたいに、意味が連結される。
電車のまとまりを区切っていけばいい。
翻訳するときは、その意味のまとまりを、論理的な構造にしていけばいい。
それがネイティブにとってどうなのかなんていうことは二の次だ。
わたしに分かるはずはない。
いろんなネイティブがいるから大丈夫だ。
意味として、誤解の余地なく伝われば、それで充分である。
(わたしはドーナツを買った)+(弟はドーナツを食べた)
(弟は(わたしの買ったドーナツ)を食べた)
意味のまとまりでいうと二重括弧になっているから、複文という。
これが複雑になると頭の悪い人には伝わらない。
頭の悪い人をもきちんと導くのがよい人なのだから、そのためには「(())」ではなく「()+()」にすべきなのだ。
人間が会話をするときには普通は()+()+()の構造で話しているので、疲れない。
大江健三郎が人の頭を疲れさせるのは、括弧が何重にも入れ子になってしまうからで、
それは意図的にやっていることで、そのように複雑にしても意味は間違いはなく伝わり、
しかも独特の味わいがでるので、芸術なのである。((()))でタマネギ型である。
大江健三郎のエッセイはそのようなことはなく、実に平明な、()+()+()のわざを見せてくれている。電車型である。
というわけで、今日は小学6年生の授業をしてしまった。
芸術的意図ならば、タマネギ型でよし。
相手を説得したいのなら、電車型。
ーー
それというのも、わたしは放送の原稿を書いていて、
やたらに複文を使って意味が難しくなってしまうので、もっと分かりやすく書いてくださいと注文がついた。
「わたしはわたしの書きたいように書く」「これは芸術なんだ」と、やはり書きたいように書いていたら、
もっとと偉い人から、もっと厳重な注意が届いた。
放送をリラックスして聞いていて、
自然に分かるように書くのも技術だというのである。
放送を聞いていて、緊張しないと分からないようでは、スポンサーがつかないという。
明確で誤解のない、しかし、圧縮された文章は、放送では敬遠される。
タマネギはダメ。
電車がいい。
太宰治なんか、きれいな電車型じゃないですかね、全体に、根本的に。
あの人はあまりフランス語を勉強しなかった。