認知療法は脳の自己訂正のプロセスなんですがそれは原理的に可能なのでしょうか
ーーまず神経系は原初的には刺激に対してダイレクトに反応しているだけです
眩しければ眼球の絞り部分を自動的に小さくしますし走り出せば自動的に心臓の鼓動は速くなります
しかし進化の過程でそのような原始的な反応だけではなしに「予測して反応する」ことができるようになりました
たとえば日本語漢字変換のシステムで最初の二文字くらいを入力すると最近の変換実績から予想してそれを変換順位の上位に持ってきます
同じようなことを脳は実行しているわけですボールをどのくらいの力で投げたらどのあたのに着地するだろうかとか目的とする動物にあたるだろうかとか予測します
予測機能があるから「不安」が発生します未来も予測もない世界では不安は発生しません不安の病理は進化の、かなり後半になってからの出来事になります。
ーー予測機能がどのくらい精密であるかは個体差があります
そのことが「運動神経」の一部になります
ーーここで注意しておきたいのは、現実を忠実に再現して予測できたとして、それは脳の二通りの機能が関係しているということです
生まれたときから偶然に、世界の法則と一致して、予測できる脳は実際に存在しています数学の天才などですこれは学習機能とは関係がありません
しかしまた、それとは別に、学習機能が優れているために、世界の法則を脳の中に正確に写し取ることができる人たちがいます
前者は世界の法則が変われば全く適応できません後者は法則が変わっても適応できます
現在の適応としては、一見似たようなものになるのですが、脳の機能としてはずいぶんと違うことをしているわけです。
ーーこの文章で問題にしているのは、後者の「自己訂正」機能です。「学習機能」といってもいいものです。
ボールを投げることを何度か試行錯誤をした後に、この程度の力で投げるとあのあたりに行くぞという感覚ですそれは脳の中に現実の「模写」が成立していて、その中で、投げるシミュレーションをしてみているわけです。
そして実際に投げてみて、現実の結果と比較照合します。現実とあわない場合は、自分の脳の中にある「世界模型」が不正確だったのです。
そこで、脳の中にある「世界模型」を修正します。そのようにして次第に正確な「世界模型」ができあがるわけです。
ーーさて、この場合に、脳の「比較照合機能」が正確に作動していれば、脳の内部にある「世界模型」はどんどん正確になっていきます。しかし、「比較照合機能」がうまく作動しないとどうなるでしょうか。「世界模型」は正確になりません。いつでもずれた予測をして、現実の結果と一致しません。しかしそれを訂正しないという、不思議な行動が発生します。
世界に満ちている不合理で理解不能な行動は多分、このような原因から発生しているのですが、誰にしても多かれ少なかれ、「比較照合機能」は完全ではありませんから、なかなか難しいわけです。
ーーそんな風にして「不完全な比較照合機能」を持ち、不完全な「修正機能」により、「世界模型」は不正確なままで、どうにか生きているのが、現実の人間の現状なのです。
まずまずで生きていけるわけです。
ーーさて、話は元に戻って、自分の認知がずれているとして、その不都合をどのようにして解消できるでしょうか。
(1)現実と自分の内部の予測の差を「認知」できていれば、訂正するチャンスが生まれます。「認知」できていなければ、訂正の必要性が生まれません。
(2)現実と予測の差を認知できなくても、他人に指導されて、素直に受け容れれば、訂正するチャンスは生まれます。ただ、応用は利きません。
(3)差が認知できていても、「訂正」はできないという場合もあります。場合があるどころか、多くの場合はこれなのです。例えば、自分が描いた絵がへたくそだと多くの人は「認知」できています。しかし、たいていは、「訂正」できないのです。ピッチャーをやっても、ストライクが取れないことは分かるのですが、「訂正」はできないのです。
ピッチャーの場合には筋肉の発達も関係あるわけですが、絵を描く場合には、線を引くだけですから、原理的な不可能はありません。消しゴムで消して書き直したっていいのです。だから「現実とずれていることの認知」だけできれば、それなりのいい絵は描けるはずなのです。しかし現実はそうではないことを考えると、人間の脳はかなり出来が悪い部分があって、しかしそれでも何とか生きていける、そのようなもののようです。
ーー認知のズレを訂正しましょうと言うことになるわけですがズレを「認知」できるかそれを「修正」できるかどちらもかなり不可能に近いことなのです
認知できるくらいなら、とっくの昔に認知しているわけですし、修正できるくらいなら、とっくの昔に修正しているはずです。
それができないからさして適応もよくないけれど、我慢して今日まで生きてきたわけです
それなのに、「認知の癖を修正する」なんて言われても、二重に難しいのです
ーー人間が、いまの自分とは違った認知セットを、持つことができれば、比較検討ができます。しかしそれができない。比較検討する自分は一つなのです。自分の意識の下位セットを比較することはできるでしょうが全体を判定するのは自分自身なのでそこに困難がある。
ーーゆがんだ鏡は自分がゆがんでいることをどのようにして自己診断すればいいのでしょうか。
たいていは、世界がゆがんでいると判定しています。
実際、世界がゆがんでいるのかもしれず、また、世界も歪み、鏡もゆがんでいるのかもしれず、そうなると歪みってなんのこと?という話にもなります
そこから先は難しい適応主義で言うと現実はなんといっても適応すべきものとしてそこにある
良い悪いの問題ではない
果たしてそれでいいのかもいろいろな主張に分散してしまう
ーーそんなわけで、たとえば英語の発音を日本なまりから、ブルックリンなまりに変更するとか、そんなこととは少し次元が違うわけです。
ーー昔の話で言えば、無意識を意識化する、というプロセスにも似ている
意識化できないから無意識というのだという認識もありしかしそれでもその一部を意識化するのだという流派もある
特有の認知の癖を持っている人が特有の認知の癖を、その癖の土俵の上でなおそうとするのであって、なかなか複雑。
治るものならば、認知している自分も、認知されている自分も、一挙に治るはず治らないならば、両方治らないはず
理解したけれど治らないというのはフロイトの昔からそれはちっょと違うだろうと言われているような気がする
ーーこうして考えてみれば、フロイトの昔からの焼き直しの側面もあり
そもそも原理的に不可能であるような気もしてくる
脳は自分自身を操作できるのか?そう定義しても良い
修正するということはその部分を一時的に否定することであって、否定される部分は抵抗するはずということは、そうではない、修正を肯定する部分があるはずなので、その部分は修正を受けないはずだから修正には限界があるはず
だから脳は自己修正は部分的にしかできないはず
そんな話
ーー難しい話が苦手な人は簡単に 「ポジティブ」に行こう 「ネガティブ」はだめ でもいいとおもうそんな言葉に納得できるなら自分はその程度なのであって学生時代に数学ができなかったのだからそんなもんだろうと思うことだむしろ安心していい悩みは深くない
認知療法で急に数学が分かるようになるはずがないことは分かっていますよね?
そして数学なんか分からなくても人生は充分に楽しいことも分かっていますよね
おなじことなんです