和歌に見られる聴覚優位・徴候性知覚の一例

何度か、聴覚と視覚の対比を行ってきた。

ここでは和歌を例に挙げる。有名な一首。

秋きぬと目にはさやかに見えねども
風のおとにぞおどろかれぬる    藤原敏行

これは、秋が来た印として、視覚ではなく、
聴覚で、まず感じるのだというのである。
「風の音」に、一番に秋を感じる。
目にはっきりと見えるのはそのあとだという。

有名な話に、統合失調症患者の特性として、「徴候性」知覚があげられる。
つまり、かすかな徴候に、現実の変化をいち早く読みとる特性である。
ごくわずかの徴候にいちいち反応していたのでは不安でしょうがない。
そんなことが脳内のドーパミン過敏性と関連していないかとか、そんな話である。
そして、集団内に、徴候に過敏な人がいれば、それはそれで有用でもあるので、遺伝子は保存されるかもしれないといった話まで出る。
例えば、かすかな音に、敵の襲来を感じたりする人がいたら便利。

この一首で示されているのは、ひとつは聴覚優位であり、ひとつは徴候性知覚である。
すると、幻聴まであと一歩ということになりかねない。

風の音で秋を認識するというのだからなあ。
分かるような、分からないような、すれすれかも。

何にしても、変化の徴候は、視覚ではなく、聴覚でより敏感に感じるというのは、確かにそのようだ。

聴覚の方があいまいで、主観的な判断が反映しやすいのかもしれない。

生物は一般に、聴覚のほうが視覚よりも広く感覚しやすいのは理解しやすい。
姿は見えなくても音は聞こえるということは多い。
また、暗闇の中でも、聴覚は生きている。
視覚よりも聴覚の方が少しだけ敏感、そのくらいがちょうどいいのかもしれない。
そのことが、幻視よりも幻聴が多いことと関係しているかもしれない。