精神療法の一般的問題点

1.診断が正しいという保障はあるのか
数回の面接で何が分かるかという問題はいつでもある
何回やっても 
もちろん部分的でしかない
自分が自分を理解するという場合でさえも
部分的でしかない
そもそも全体を客観的に把握することは原理的に出来ない
人間の五感でとらえる一時的な状態でしかない
談話する人は嘘や誇張や控えめなことがある
人間でなくても、目の前にマグカップがあるとして、その全体を知ることなどできない
しかしだいたい現実生活に不足のない程度に他の物体と区別するくらいはすぐにできる
マグカップの正確な定義を思いつかなくてもお茶は飲める
それでいい
マグカップに対する好き嫌いもあるだろうが
飲んで洗ってしまっておくくらいは誰にでもできる
壊れたら接着剤で修理することもできる
それにはマグカップの歴史も知らなくていいし正確な定義も知らなくていいし
色や値段に無関心でもいいのかもしれない
それでも修理はできる
またお茶を飲めるようになる
しかしながら歯の修理をする場合に比較して、
精神に関わる場合ははやり人間の歴史とか性格面を知って置いた方がいいことは確かだ
その客観的な程度については疑問も問題も原理的なレベルで残るのだけれども
ピアノの先生が生徒のおおむねの成長段階を把握するために
生徒に「モーツァルトのソナタを一曲弾いてみて」というのと似ている
それですべてが網羅的に客観的に分かるわけではないが「おおむね」は分かる
次のレッスンで何をしたらいいのかも分かるだろう
観察が正しい保障はあるのか
信頼できる数名がそれぞれに診断して必ず一致する必然性のある手続きではない
診断される側はそれでは大いに不満であるということになる
結局診断する人間を信頼するしかない
数字があっても写真があっても大して変わりはない
客観に到達することは困難である
必要充分な客観と見なしているだけである
お互いそのようにしようと取り決めているだけのことだ
納得できる客観性のレベルをいわば擬制として共有しているだけである
面接する側の理論的な背景とかパーソナリティの背景が影響することは避けられない
人生の要約も聞くけれど様々な要約の仕方がある
それが完全な要約とは限らない
結局全体ではない
語る側にしても過不足のない全体を語ることができることはまれである
繰り返し語ることが治療そのものになることもある
もっと原理的なことをいえば
人間はものそのものを認識することは出来ない
必要な部分を抽出して認識しているだけである
例えば隅田川を見た、鴨川を知っている、富士山をつくづくと見たことがある、
そのように語ったとしても、たとえば隅田川のすべてを知っているわけではない
すべてを知ることは原理的にできない
すべてを知ることができない以上、必要充分であると判断することも難しいはずである
知らないところに重要部分が隠されている可能性を否定するためには
隠された部分を知り判定する必要があることが多いだろうから
1-1 しかし人間の認識にはそれで充分だという側面がある
人間は「ものそのものを知る」ことはできない
しかしたとえばマンガでも泣くことができるし映画でも感動することができる
すべてを知る必要はないとも言える
必要十分に知ればそれでよい
しかしそれはどの程度でありどのような項目であるか完全に分かっているわけではない
2.解釈が正しい保障はあるのか
治療方針が正しいという保障はあるのかといえば、多分、ない
そもそも完全に正しい見立てはないからだ
ひとつの時点でひとつの地域で妥当であるという程度の共通の見解は可能である
しかしそれは論理的な帰結ではなく政治的産物である
魔女狩りの時代にも多分人々はまじめだった
少ない手がかりを元にして治療を始めることはできる
それは理論があるからだ
精神分析にしてもロジャースにしても認知行動療法にしても生活療法にしても同様
それぞれに正しいが、相対的である
たとえば平面上にいくつかの点が決定されれば
それを結んで図形を作ることは不可能ではない
円を描いたり楕円にしたり長方形にしたり
単純な図形にするほど指定する点は少なくてすむ
理論とはそのようなものだ
少ない情報でぴたりと分かるのは
理論が単純だからだ
円には中心と半径の二つの要素しかない。
多様な解釈があって多様な治療があっても
結局最終的にはそれでいいのかも知れない
富士山に登るにはいろいろなルートがある、しかし、最後はどうせ頂上にたどり着く、それでいい
たまには
精神分析ルートで頂上に行きたいという、ルート指定の人もいて
それはそれでいい