自己愛社会の端的な現れは
いくつも指摘できるのだろうが
公共の場で私を語る
ということがあげられる
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昔はもちろん、そのような「公共」の場はなかった。
ヨーロッパの伝統には「アゴラ」があり、
それは町の中心の広場であり、
そこには開かれた言論があり、雄弁術が発達した。
日本ではそのような「言語の公共空間」はかなり限定されていた
たとえば宮廷の歌合わせ
それ以外はすぐに消えてしまうものとして
嘘でも愚痴でも言い交わされていた
日本語が活字で大量印刷されるようになって
編集者というものが幅をきかせた
たとえば「私的な記録文章」の体裁をとり、
しかし高度に文学的な営みが一部でなされた。
それは事柄としてはまことに下らなく、
翻訳すれば、ほとんど意味のない文章であるが、
日本語の芸としてはなかなかのものだ。
落語などもそうで
言うことはきまっているのに
やはり笑っている。
「私的な言語空間の文学的公共化」が達成されたわけだが、
そうなると
私的言語空間に合わせて人生を生きて、それを公共空間に差し出す人も現れて、
太宰治などがそんな典型だろうと思う。
公共の場で興味を持たれるような私的な人生を構成し、それを語った。
太宰の文学がいまだに大いに売れて読まれているのは
ひとえに自己愛的だからである。
自分の人生と自分の生き方が大好きなのである。
その大好きなものを人々と共有したいのである。
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そんな時代もあったが、やはり一般の人は日記を書いて、
ある時期にそれを処分して、大人になったものだ。
それなのに現代は、
公共の場で、他人はほとんど関心がないと決まっているような瑣事を
細々と書いて差し出している。
そのために電気を消費し、働く時間を削り、寝る時間を削る。
それはいったいなんのためか。
答えはほぼひとつでひたすら自己愛のためである。
不思議なことに
誰にも読まれていないのを承知で
それでも自己を表現するのである。
だからこそ自己愛と呼ぶべきなのだろう。
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誰も見ていないのに
現代のアゴラで
自己を演じ続ける
そのような公共の場を出現させたのはネット社会である
そして飢え死にすることのない豊かな社会の出現がもう一つの前提である
誰もが読み書きが「ある程度」できることも条件である
先の総理大臣の例のように
普通に生きているようでも
読み書きはできないという人は実は多い
これは
教育は根本的に自分を育てるのではなくて
公共を私の内部に植え付ける操作だったからだ
戦争の時しかり
だからゆとり教育と言われて
自分自身になれと「命令」されて
一体何の命令なのか誰も分からなかった
しかし社会に出ると
自分自身であることではなく
結果を求められる
そこで大量の挫折者が発生する
そしてそのこともまた
公共の場で語る
自分はこんなに惨めだと自己愛的に語るのである
それが現代的メディアである
出版社から編集者が消えて
テレビから筑紫哲也が消えて
そしてあとは自己愛の放出合戦になっている