「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法

「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 

どんなにステーキが大好きな人でも、

毎日、朝昼晩、ステーキだけを強制的に食べさせられ続けたら、

だんだん苦痛になってくる。

本当にステーキが好きな人なら、最初の1ヶ月くらいは毎食ステーキだけでも天国かも知れないが、

それが半年もつづけば、もはやステーキを見るだけでウンザリするだろう。

プログラミングが好きでプログラマーになってしまった人は、

これと同じ種類の拷問にかけられる。

どんなにプログラミングが好きな人でも、毎日休まずプログラムを書き続けないと

生活できないとなると、それはだんだん苦痛になってくる。

好きなことを仕事にして生きていく、というのは、本質的にそういうことなのだ。

そもそも、人は、その瞬間、瞬間で、いろんなことに興味をもち、

いろんなことをやりたくなる、自由で軽やかに発散していく欲望を持っている。

どんなにプログラミングが好きな人でも、

朝起きて、今日は空が青くて気持ちいいな、と思ったら、そのまま電車に乗って、

海を見に行きたくなったりする。

電車でかわいい女の子を見かけたら、

プログラミングなんかするより、その子を眺めていたい。

美味しそうなチョコレートパフェの店頭ディスプレイを見かけたら、

午後のプログラミングは中止にして、喫茶店に飛び込んで、

チョコパフェを食べてまったりしたくなる。

しかし、職業プログラマーは、常に納期に追われている。

だから、自分の中からわき上がってくるこれらの純粋で自然な気持ちを殺して、

しぶしぶプログラミングをする。

どんなに気分が乗らなくても、どんなに苦痛でも、プログラミングするしかない。

どんなに疲れていても、体調が悪くても、納期が迫っていれば、無理してプログラミングするしかない。

好きなことを仕事にしたとたん、「好き」はあなたを縛り付け、苦痛を与え続ける拷問台になる。

これに気がついたとき、ぼくはプログラマーを辞めた。

「好きを仕事に」という牢獄から脱獄し、

「ショーシャンクの空に」みたいに両手を広げて空を仰ぎ、生きている喜びを味わうことにした。

夕日に染まる美しい落ち葉の林を歩くとき、

ぼくは、自分が何者でもないことに感謝する。

もしボクが写真家だったら、ぼくはこの美しい光景を、

どうしたらきれいな写真に収めることができるか考えるだろう。

もしボクがミュージシャンだったら、この美しい光景を

曲にすることを考えるだろう。

もしボクがビジネスマンだったら、この美しい光景で、

金儲けをすることを考えるだろう。

もしボクが哲学者だったら、この美しい光景を見て、

哲学的な思索をはじめるだろう。

しかし、ぼくは何者でもない。

だから、この美しい光景を、

単にその美しい光景、それ自体として、そのまま素直に受け入れ、味わい、楽しむことができる。

ぼくはできるだけ、そのときどきの自分の中にわき起こってくる自然な気持ちに従って生きることにしている。

企画をやりたいときには企画を、法律に興味をもったら法律を、

デザインをやりたいときにはデザインを、会社を作りたくなったら会社を、

女の子と遊びたくなったら女の子と、

金儲けゲームをしたくなったら金儲けを、ブログを書きたくなったらブログを、

絵を描きたくなったら絵を描くことにしている。

だから、ぼくには趣味と言えるものがない。

好きを貫いてもいない。

ぼくは「好きという呪い」から自由であろうとする。

「好きを仕事に」というキャッチフレーズは、

社会を維持し、食っていくためにいやいや仕事をやっているという現実から

目を背けるための、モルヒネでしかない。

毎日朝昼晩、ステーキばかり強制的に

食わされる生活が幸福であるはずがないのだが、

「ぼくはステーキが好きだから、

毎日ステーキを食べられるボクは幸せなはずなんだ」

と無理矢理自分を洗脳し、誤魔化しているだけだ。

そして、社会も「好きを仕事にしている人たちは輝いている!」という

インチキ宗教を絶賛キャンペーン中である。

なんで、人々はこのようなインチキ宗教を信じてしまうかというと、

単にその方が経済効率がいいように思えるからだ。

なんで社会がそれを推奨するかというと、

それによって、人々を社会の歯車(≒奴隷)として社会システムに組み込むのに

都合がいいからだ。

ビジネス戦略の基本は、「選択と集中」である。

ぼくのように、そのときの気分で、デザインをやったり、企画をしたり、

ビジネスモデルを組み立てたり、法律を調べたり、設計をしたり、プログラミングを

したりしていると、どの分野のスキルも中途半端になってしまい、

売り物になるほど専門性のあるスキルが確立できない。

これが原因で、人々は、しかたなくどれか一つの専門を選び、

そこに「選択と集中」をすることで、自分の専門性を確立し、

それをウリにして生計を立てるのである。

たとえば、法律ばかりを徹底して極め、法律家になったり、

企業の法務部門のスタッフとして職を得ることができる。

この選択と集中を行うのと行わないのとでは、

生涯で得られる報酬が大きく異なる。

報酬には、直接金銭で支払われるものと、非金銭的なものがあるが、

その両方とも、選択と集中を行った方がはるかに多くなる。

自分の専門性を確立した方が、よりよい職位を得られる。

そうするとまず、当然、より多くの年収が得られる(金銭的報酬)。

また、職位が高いのでステータスが高く、より多くの人に敬意を払われるので気分がよい(非金銭的報酬)。

さらに、よりやりがいのある面白い仕事が優先的に回ってくる(非金銭的報酬)。

異性にもモテるだろう(非金銭的報酬)。

これは、なにも大企業に雇われているサラリーマンだけではない。

フリーランスでもベンチャーでも、本質的な構造はなんら違いはない。

このように「選択と集中」は、とても甘い果実だ。

それは、人生に多大な豊かさをもたらしてくれる。

しかし、その甘い果実には、ジワジワと人生を蝕み、腐敗させる、イヤらしい毒が含まれている。

その毒に犯され腐敗していくさまざまな希望と可能性を、ポリバケツに放り込み、

臭いが漏れないように塞ぐためのフタが、「好きを仕事にする」という免罪符なのだ。

もちろん、だからと言って、全く選択と集中をしないでそのときの気分だけで生きていたら、

毒にもあたらないけど得られる報酬が少なくなりすぎる。

だから、この果実を食べること自体は必要悪だ。

なので、あとは、いかにこの果実の毒抜きをして上手に料理して食べるかがカギとなる。

たとえば、プログラミングに興味をもったら、最初の数年は、

そればかりやっていても、意外に楽しめる。

この状態では、果実の甘みと栄養が身体にどんどん吸収されているが、

まだ毒はあまり出ていない。

しかし、何年かたつと、毒がまわりはじめる。

そして、そのタイミングが、決断の時だ。

もしここで、プログラミングへの選択と集中をやめて、

そのとき興味をもった別の分野の仕事に移ろうとすると、

収入は大幅にダウンする。

なぜなら、いまの自分の給料は自分の専門性に対して支払われている

ものであって、その専門性を捨ててしまったら、自分は何者でもなくなって

しまうからだ。

さらに言うと、選択と集中によって専門性を確立し、年収600万円になっている

ころには、人は既にある程度の年齢になってしまっており、

そこから他の職種に職種変えしようにも、そもそもそんな高年齢の新人など、

どの分野でもろくな待遇で受け入れてくれないのである。

なので、多くの人は、給料や待遇のダウンがイヤで、

いまの専門分野以外の職種につけないまま、一生を過ごすことになる。

これにより、それ以降の人生を、

自分の中にわき起こってくる、みずみずしく透明にきらめく、

多様な好奇心と欲求を、血まみれになりながらナイフでえぐり取り、

素知らぬ顔でゴミ箱に捨て、腐らせながら歳をとり、

灰色の時間で一生を塗りつぶすことになる。

これが、「好きを貫いて生きる」ということの身も蓋もない現実だ。

しかし、そもそも、自分の専門性の蓄積によって得られている現在の高収入・好待遇を

前提として生活設計していること自体が、大きな勘違いなのではないだろうか?

選択と集中の果実の甘みであるその高収入・好待遇を

その毒にやられることなく味わえるのは、

最初の数年であることを自覚して生きているべきなのだ。

選択と集中によって現在年収600万円になっている人間は、

選択と集中という牢獄で一生を終えるという

奴隷契約書にサインをしないかぎり、

その年収は維持できない。

だから、選択と集中という牢獄につながれて一生を終えたくなければ、

現在の年収や待遇が、あくまで、ごく一時的な、仮のものとして生きていかなければならない。

高い待遇を仮のものとすれば、いつでもそれを捨てられる。

また、高い待遇を目指すために、ガマンして勉強したり仕事したりすることに

時間をとられることも無くなる。*1

そうすることによって、その時々の気分で、少しずつ自分の専門分野以外に、

ふらふらと足場をずらしながら、気分良く生きていくことが出来る。

たとえばボクの場合、最初は大学で心理学をやっていたけど、心理学データを処理する

プログラミング自体に興味を持ち、あっさり心理学を捨ててプログラマになってしまって、

今度は研究所で人工知能システムを作り、その後、業務ソフトから、エンタメソフトまで、

いろんなプログラムを開発した。そのうちプログラミングに飽きてきたら、

最初はITの新技術をレポートする雑誌記事を書きはじめ、

そのつてで、技術書の監訳の仕事が来て、さらに英語に興味をもち、翻訳をするようになり、

今度は自分の本を書き、また、知り合いも増えて、一緒に起業することになり、

あるいは、全然別分野で、巨大プラットフォームのAPI策定をするようになり、

国際会議にでてアメリカ人とかフランス人とかと議論したり、海外講演することになったり、

ユースケース分析、マーケティング、企画、そして、さらに、

デザインや法務や人事や経営の仕事にも首をつっこんだ。

仕事ばかりしてたわけではなく、むしろ、単に気分が乗らないという理由で

しょっちゅう仕事をズル休みして、ニフティのフォーラムで遊んだり、

一日中DOOMをやっていたり、出会い系でいろんな女の子に会ってみたり、

歴史、文学、経済、科学、哲学、マンガ、など、いろんな分野の本を読み、

フランス、タイ、シンガポール、インドネシア、メキシコ、韓国、アメリカ、ネパールなど、

世界中をバックパッキングし、2チャンネルでレベルの低い厨房文学論争をやってみたり、

NOVAのVOICEルームで外人のお兄ちゃんお姉ちゃんたちと社会問題の議論をしたり。

ようは、肩に力を入れず、頑張らず、努力せず、いやなことから逃げまくって、

そのときの気分しだいで、その時々のやりたいことだけやって、

いいかげんに生きてきた。

もし、ボクが選択と集中という牢獄につながれて生きることを選んだなら、

もしかしたらぼくは、何者かになって、それなりの地位と名誉を確立していたかも知れない。

しかし、それと引き替えに、多様な料理を味わう自由を失い、

「大好きなステーキだけを朝昼晩強制的に食わされ続けるという地獄」

で一生を終えなければならなかったとしたら、そこまでして

そんな地位だの名誉だのを欲しいとは、とうてい思えないのである。

ましてや、オープンソースだのネットコミュニティのリーダーとなって、

そこに「人生を埋める」生き方など、たとえ出来たとしても、まっぴらごめんだ。

そりゃ、ほとんど「人柱」でしょ。すこしもうらやましいとは思えない。

もちろん、現実には、「大好きなステーキを毎日強制的に食わされる牢獄」から

飛び出したところで、そこが常春のお花畑かというと、そんなことはない。

そこには、過酷な自然があり、春夏秋冬があり、ときには稲妻と嵐の荒れ狂うこともある。

牢獄の中よりもはるかに高いレベルで、知恵と勇気を振り絞らないと生きていけない。

それでもなお、その牢獄の中の灰色に塗りつぶされた空間などより、

よっぽど人間らしく生きていけるのではないかと思うのだ。

そもそも、id:umedamochio氏の提唱する「好きを貫く」という生き方は、

いかにも「近代人」的だ。

首尾一貫した自立した個人が、理性と主体性をもって社会を形作っていくという、

近代の夢見た一つの理想的人間像だ。

梅田氏は、大組織に縛られた生き方以外の「けものみち」を提唱しているが、

その生き方も結局のところ、近代の美しい夢であった「自立した個人」が

理性の力で対等に結び合って社会を形作るという、思想の枠、

お釈迦様の手のひらの上からはみ出せていない。

しかし、その後の歴史において、この近代の理想的人間像に隠された欺瞞と

インチキと弊害が、さまざまな哲学者や思想家たちによって徹底的に暴かれぬいた。

後に、ポストモダニズムと総括されることになる多様な思想の潮流群だ。

彼らによって、そもそも、首尾一貫した自立した個人などというものが、

ずいぶんと頭のヌルい幻想でしかないことが白日の下に晒された。

「好きを仕事に」とは言うが、そもそも、そんな確固たる「自立した主体」などという

ものは存在しない。

「ほんとうの自分」がどこかにあるはずだと、「自分探し」を続ける若者がよくいるが、

多くの場合、自分なんかいくら探したって見つかりゃしないのである。

自分の「好き」はいつもふらふらと移り変わっていて、

そんなふうに、カチっと定義づけることなどできやしない。

それを、無理矢理「ぼくは○○が好きな人間なんだ」などと定義づけるから、

「好きなステーキを毎日強制的に食わされる牢獄」などに閉じこめられてしまうのだ。

また、意識と無意識の境界も曖昧で、ぼくたちは、いつでも理性によって正しい

判断とやらをしているわけではない。ぼくたちの行動の多くは、多分に無意識に支配されている。

自分とは、そういう、茫漠としてつかみ所が無く、その時々の状況や気分でふわふわと

移り変わっていくところがあり、当然のことながら「好き」だって、ふわふわと移り変わる。

こういうことが、すっかりバレちゃっている現代という時代において、

いまさら、古めかしくかび臭い「近代の理想的人間像」などを持ち出しで

「好きを貫く」などと言われても、少しもピンとこない。

もちろん、これら、ポストモダンが突きつけた思想的課題を克服した上で

それでもなお、「好きを貫く」という思想を構築したというのなら、

それはそれで一本スジの通った主張であり、傾聴に値する。

そして、ぼくが梅田氏に期待したのは、そこの部分だった。

ポストモダンは、近代の安易な理想を徹底的に破壊し尽くしたのはいいのだけど、

壊すだけ壊しておいて、その後に、あるべき人間や社会の理想像を構築できた

かというと、いかにも心許ない。

その点において、少なくともニーチェは、キリスト教、民主主義、科学、哲学など、

既存のメジャーな価値体系が隠蔽している欺瞞と汚物をえぐり出し、徹底的に

その正当性を破壊し尽くした後、「では、人間が目指すべき理想像とはどのようであるべきか」

という、その後の価値創造に腐心している。

あんまり成功したとはいえないけど(笑)。

これに対し、ポストモダンの思想家たちの多くは、近代の理想を、

ぶっ壊すだけ壊しておいて、その後の価値創造において、見るべき成果がない。

だから、現代社会における現実的な諸問題

(たとえば、日本の教育システムはどうあるべきか)などの

解決策を議論するとき、多くの場合ポストモダニズムはものの役に立たない。

むしろ、ポストモダンが徹底的に批判し尽くし、欠陥商品であることがバレバレになったはずの

ヘーゲル思想の方が、人々の間にコンセンサスを作り出し、より多くの人を納得させる

よりよい教育システムを構築するために、はるかに思考のベースとして役に立って

しまうほどだ。

この意味で、一見、上から目線で近代をこき下ろし、

すっかり近代を乗り越えたはずのポストモダンは、

ボク的な感覚では、とてもじゃないが、きちんと近代を乗り越えたとは言えない。

だから、ボクは梅田氏に、本来、広がり伸びていく人間の自由な精神を、

堅苦しい枠に閉じこめて殺してしまう、古めかしくかび臭い近代の

呪いを破壊し尽くしたポストモダンを、さらに乗り越えて、

その向こうに新たな理想の生き方を示してくれることを期待した。

しかし彼は、あの、すっかり欠陥商品であることが

バレバレになってしまっている、古めかしい「近代」に、WebとかITとかいう

ペンキを塗り直して持ち出しただけだった。

もちろん、Web時代にはWeb時代の生き方がある。

たとえば、Webは、それまで企業しか持ち得なかった「販売チャネル」を

全ての「個人」に解放したという、ただそれだけの側面を捉えただけでも、

社会的、文化的、経済的に、とてつもなく巨大な革命であり、

その販売チャネルを使って「自分という商品」を売り込まない手はないし、

そうすることで、企業と個人の関係は劇的に変わっていくはずだし、

とうぜん、社会の構造も、文化も、個々人の生き方も、

いままでとはドラスティックに違ったものになっていくだろう。

しかしそんなことは、数世紀前に歴史の歯車の回転の速度が上がり始めてからは、

いつの時代も起こり続けてきたことで、現代の変化だけがとりたてて特別だと言うこともない。

印刷機のないところに印刷機ができたり、

陸地に閉じこもっている時代から大航海時代になったり、

近代教育システムのなかったところに、近代教育システムができたり、

普通選挙の無かったところに普通選挙ができたり、

鉄道の無かったところに鉄道ができたり、

テレビの無かった世界にテレビが出来たり、

飛行機の無かった世界に飛行機が出来たり、

農業主体の経済から工業主体の経済になったり、

軍事主体の世界から経済主体の世界になったり、

電話の無かったところに電話ができたり、

人類史上初めて全世界規模で高齢化社会になったり、

共産主義が一時的にはかなりの成功を収めながら、結局は崩壊したりして、

社会構造や人々の生き方に、その都度とてつもない大革命を引き起こしてきた。

そのたびに、人生の戦略とビジョンを、根本から見直さなければならないほどの、

大革命が起き続けてきた。

それは絶え間ない大変化であり、それぞれに区切りをつけようと思えばつけられなくはないが、

それらは多分に恣意的なもので、区切ることにさほどの意味はない。

このWeb時代の進化は、ますます加速度的に大変化をしていく連続的な

流れの中に埋まっており、それだけが他と比べて特別な「革命」というほどでもない。

むしろ、軍事主体の世界が経済主体の世界にパワーシフトしたことの方が、

経済主体の世界が知識主体の世界にパワーシフトしたことの方が、

無限に成長すると信じられていた日本経済の高度成長が終わったことの方が、

Web進化なんかより、はるかに人々の人生戦略へのインパクトは大きかっただろう。

こういう何百年も続く絶え間ない大変化の中で、

われわれがどう生きていくか、新しい人間像や生き方のモデルを指し示すには、

単に新しい時代の変化に適応するための場当たり的な処方箋を示すだけでは、足りない。

過去に我々がひとたび理想と信じ、そして夢破れた教訓をふまえ、

その上で、新しい人間像を提示して、はじめて地に足がついていると言えるのではないだろうか。

その意味で、近代が夢見た理想の人間像に、つぎつぎに欠陥が見つかり、

それを暴き立て、破壊し尽くしたポストモダンを乗り越えて、

さらにその向こうに新しい人間像、人間の生き方を示すことなくして、

「現代という時代にそった新しい生き方」を提示すると、どうしても陳腐になってしまう。

実は、この問題意識は、このブログ自体のテーマでもあり、

「分裂勘違い君劇場」というタイトルは、そこから来ている。

私は何者でもなく、私の意識は分裂して、多重人格で、勘違いの上に勘違いが重なり、

しょっちゅう自分で言ったことの正反対のことを言っていて、

一貫性がないどころか、わざと一貫性のない態度をつらぬき、

一貫した思想をあがめ奉る人々に対して、

真正面から挑戦状をたたきつけている。

そして、そこに、近代が生み出した理想の人間像という呪いの

拘束具を食い破って自らを解放し、人生を謳歌するための鍵が埋まっているのではないかと感じている。

イメージ的には、ちょうど「生物と無生物のあいだ」という本で描かれている

「生命体の本質」に近い。

。。。私たちが食べた分子は、瞬く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり、

次の瞬間には身体から抜け出ていくことを証明した。

つまり、私たち生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている

分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。

<略>この「動的平衡」論をもとに、生物を無生物から区別するものは何かを、

私たちの生命観の変遷と共に考察したのが本書である。

(強調は引用者による)

生命体が「流れ」そのものであるように、いろんな思考、アイデア、感情、感覚、欲望が

常に入れ替わり、移ろいゆき、「流れ」として自分の精神を形作っている。

それは動的平衡を保つという形でのみ「自分」を形成しており、どこかに

固定化された静的な「自分」などというものがあるわけではない。

「自立した個人」という近代の理想的人間像が人間を拘束し、灰色の部屋に閉じこめ圧殺してしまうのは、

人間の精神が静的なものであることを前提とするという過ちから来ているのではないか。

人間の精神が静的なものでない以上、自分の中の「好き」も静的に固定化することなど出来ず、

そんな静的な自分を求めて、インドやタイに「自分探しの旅」に出かけたところで、

「本当の自分」などという静的な状態を見いだすことなどできやしない。

好きを貫こうにも、そもそもそんな静的な「好き」など存在しない。

好きというのは、努力して見いだして貫くようなものではなく、

自然体で生きているうちに、結果として動的平衡として好きなことをやっている自分という

状態になるのではないか。

そして、ボク的には、そのイメージが、2ちゃんねる管理人のひろゆき氏の生き方に重なる。

いかにも古めかしく暑苦しい近代的な梅田思想に比べ、

肩の力の抜けたひろゆき氏が自然体で語りかける言葉の一つ一つは、

はるかに現代的で洗練されており、次の時代を生きるためのヒントがあるように思う。

必死で努力し、ガマンして毎日ステーキを食べつづけなくても、

肩の力を抜いて、ふらふら、だらだらしながら、自然体でサービスを作り出した方が、

むしろ、より次の時代にふさわしい、新時代を切り開くような洗練されたサービスを

開発できるのではないだろうか。

真に強烈な打撃は、脱力とリラックスから生み出されるというのは、

さまざなまスポーツと格闘技の基本だ。

これが、ステーキが大好きな僕が、いま、血の滴るステーキではなく、

納豆かけご飯と塩鮭とほうれん草のおひたしを食べ、

バランスボールをポヨンポヨンさせながら、この記事を書いている理由であり、

明日もまた、やはりステーキの好きな僕は、オニオンスライスとシーチキンの

和え物でも食べようかと思いつつ、気が変わってカレーライスでも食べているかもしれない理由なのである。
2009-12-24 02:53