新聞で
盲学校を取材したとき、子供が外に飛び出して、
「わあ、風がきれい」と叫んだ。
「わあ、風がきれい」と叫んだ。
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雪の降る北国に住んでいると
冬の間は高校生は歩いて通学している
春になって雪が溶けて
自転車通学できるようになる
そのときの空気のおいしさは格別だった
なんという祝福に満ちていたことだろう
思い起こせば
人生にはいくつもの祝福もあるのだ
ーー
一方、祝福ばかりではない面も確かにある。
それは確かにあるのだ。
たとえば私は今まで誰を幸せにしてきたか。
そう自問して、ため息をつく。
無論、幸せになるならないは、神の決めることかもしれないし、
本人に責任の一部があるのかもしれない。
しかしまた関わっている自分にも責任の一部はないわけではないだろう。
過剰な自責は正確な認識ではないと思うが、
別の運命も可能だったのではないかと考えるとき
つらさもある。
また別の面から考えると
私の側の人生も翻弄されていたことになる。
当時はよく見えなかったものも、今ならば少し整理をしつつ、見通しを得ることもできるのだ。
あのときが翻弄され始めたときだったのだと思わないでもない。
ーー
そしてまたいまも子供たちは無邪気に「わあ。風がきれい」「空気がつぶつぶしてておいしいよ」などと叫ぶだろう。
そのとき運命の歯車は少しだけ回っているのだ。