土浦9人殺傷死刑判決水戸地裁・責任能力認める

新聞によれば

裁判長「死刑になろうと無差別に殺害した犯罪史上まれな凶悪重大事件だ。
構成の可能性は極めて乏しく、死刑はやむを得ない。」
弁護側は「犯行当時、心神耗弱だった」として死刑回避を主張。
精神鑑定結果は、「人格障害による性格の偏りはあるが、精神障害にはあたらない」とした。
「被告の自尊心を満足させる生き甲斐が見つからないのは無気力が背景にあり、
人格障害が相当程度影響しているが、自分の行動や善悪を認識できている」と、完全責任能力があったと結論。
無差別殺傷は、「きわめて残忍、悪質で、思いとどまることなく犯行に及んでおり、計画的だ」と指摘。
「人生がつまらなく感じたのは、被告が努力しなかった自業自得とも言うべきもので、身勝手きわまりない。」
「人の気持ちを理解するのは基本的なことだ。なぜ他人を考える余裕がないのかを考えて欲しい」と判決言い渡しのあと、裁判長は被告に語りかけた。
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高校時代から人生に生き甲斐を感じないので自殺したいと思うようになった
引きこもってゲームにふける生活
つまらない毎日と決別するため具体的に自殺を考えたが、痛い思いをするだけで確実に死ぬことができるかどうか分からないと自殺を諦め、それほど苦しまずに死ぬ手段として、死刑になろうと考えた。
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死刑になることを目的として、死刑に相当するような犯罪を実行したというケースなのであるが、
この場合、刑罰はどのような意味を持つのだろうかという点が問題になる。
犯罪者個人のことを別にして、社会保全の観点から見れば、やはり、ふさわしい刑罰を用意して、実行することが
いいのだろう。大多数の思考回路にとっては、それが抑止力になるからだ。
しかし犯罪者個人の内部ではそれはむしろ計画したとおりの報酬である。
それをそのまま、司法が提供するのである。これはこの個人の場合には抑止力として作用しない。
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もっと軽度な犯罪の利用としては、軽犯罪の累犯をしてしばらく刑務所で暮らしたいという人もいる。
そのことで犯罪者は目的を達成しているわけだ。
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このような場合でも、死刑になりたいとか、刑務所で暮らしたいとかの希望を抱くこと自体が、
一般通念としては共感しがたいわけで、
しかしそれを心神耗弱とするのか、性格の偏りとするのか、思考・推論の偏奇とするのか、
顕微鏡上の構造の変異を提示できない以上、
裁判官の社会通念で語ることになってしまうだろう。
それはそれで特段大問題でもないと思うが、
一応そのような背景はあることになる。