友がいれば悲しみは半分になり
喜びは二倍になると
昔からいわれる
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人間は悲しいときに
昔の悲しみも一緒に悲しんでいるのではないかと思う
人間は体験に感情の標識を付けて記憶の倉庫に格納する
格納する倉庫をデパートみたいな建物だとする
悲しみは1階
喜びは2階
怒りは3階など
人によって分類は細かくもなり粗くもなる
10くらいの区分で終わる人もいるし30くらいに区分して格納する人もいる
それはおおむねその人の使用する言語の網の細かさによる
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悲しいことがあったとき記憶の格納庫に行って
エレベーターに乗る
悲しみの階で降りると
そこには過去の悲しみが格納されている
親が死んだとき
猫が死んだとき
友達と別れたとき
恋人と喧嘩したとき
すると、いまは上司に叱られただけの悲しみなのに、
昔のいろいろな悲しみを一緒にして悲しんでしまうことになる
それは大変なことだと思うのだ
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言語の網の目の細かい人は分類が細かいので
何か体験したときにも
引っ張り出す体験はそれほど多くなくてすむ
言語の網の目の粗い人は
おおざっぱに悲しいことでいろいろな体験が思い出されてしまうので
一杯になってしまう
だから言語の微細な分類習慣は大切なのだと思う
極端な例になると「ひどいこと」とひとくくりにしてほとんど全部の「いやな」「不快な」体験をまとめているので
なかなか大変なことになる
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白菜が煮えたので続く