学校における道徳教育は二重構造をなしている

後輩のレポート むむむ なるほど

(1)学校における道徳教育は二重構造をなしている。それは、特設された「道徳の時間」における道徳教育と、学校全体を通じて行う場合の道徳教育の2パターンで行っている。細かく見ていくと、新たに開設された学習指導要領には、道徳に関して言うと、「各教科、特別活動及び総合的な学習の時間における道徳教育と密接な関連を図りながら、計画的、発展的指導によってこれを補充、進化、統合し、道徳的価値の自覚を深め、道徳的実践力を育成するものとする」と位置づけ、先ほどの二重構造の両者の関係を位置付けているものとして考えることが出来る。それを詳しく見ていくと学校教育そのものが教科指導と教科外指導と分かれている。まず、教科指導から考えてみる。道徳における教科指導の重要性は、人間の財産としての文化的価値を子どもに伝達し、これによって鋭い知性と豊かな情操を育むための基礎をつくることができる。これらの基礎がなければ、学校全体で行う場合の行動としての道徳教育につながることができない。何故ならば、土台がなければ、真に正しい道徳的判断力、道徳的心情、道徳的態度、道徳的行為を望むことができないからだ。理性や知性の裏付けのない道徳至上主義は危険であるのだ。教科活動で教授的方法により知と技を学びこれが人格の形成につながる一つの手段として挙げられているがこれだけでは不十分でもう一つの方法も相互しておこなわなければならない。それが、学校全体で行われる教科外活動である。これは道徳や特別活動にもつながっている。道徳性(情・意)または社会性を身につけさせるために訓育的方法が用いられる。教科指導と教科外指導が相互関係にあり、それによる目的とした知識や道徳性、社会性が人格の形成におおきく作用するというのだ。ただ、教科の指導だけでも、教科外活動をさせるだけでも、人格を形成することはできず、2つのアプローチがあってこその道徳の指導であるというのが二重構造である。「小学校学習指導解説・道徳編」では次のように説明されている。「道徳的実践力とは一人一人の児童が道徳的価値を自分の内面から自覚し、将来出会うであろう様々な場面、状況においても、道徳的価値を表現するための適切な行為を主体的に選択し、実践することが出来るような内面的資質を意味している。」道徳的価値の内面的自覚が普段の生活の中で自覚を持ち、子ども一人一人が自分の心で考えて行動するためには、教授法としての道徳教育と、子ども達が自主的に考え行動するためのチャンスが与えられるような場所を提供し、学校教育活動全体を通して子どもの道徳心の芽を伸ばしていくような教育が道徳教育の二重構造であると私は考える。

(2)私自身、教育実習で道徳の時間を担当した。対象は6年生だった。バスケットコートの取り合いについて、子ども達に討論させた。そしたら、シビアな意見がいくつもでてきた。本当は譲ればいいに決まっているが、でも「早い者勝ちだ」とか、「譲ってばかりしていても人生生きていけるものか」とか、そのような言葉がいくつも出てきた。しかし、クラスの人の一人がこう提案してきた。「半分ずつにすればいいじゃない」という意見が出てきた。そうすると多くの子ども達が、「それがいい、時間を半分ずつにしよう、コートも半分ずつにしよう。」と何かを譲ることがテーマで半分ずつにすることを学んだ。ちょうどいい時期に学活の時間にバスケットボールのクラス対抗試合というものがあって、私は、練習試合の際に、彼らがどのようにして、あの狭いバスケットコートを使うのか見ていると、半分ずつにしたり、業間休みと昼休みで女子と男子が譲り合ってコートを使っている所を拝見して、私は感動した。さっき、道徳の二重構造の勉強をしたが、ただ机上で一方的に教師がモラルを教え込んでも何の人間形成の役に立たない。子ども達はもうすでにどうするのが正しいのかわかっているのだが、でも、その時自分の目の前にその現状が来ると道徳的な対応が取れないから困っているのだ。だから、教壇で教師がただ、「譲り合いましょう、ルールを守りましょう」といったところで、子どもの心には響いていかない。子どもは本当の意味で納得はしていない。だからこそ、授業では子どもが主体となって、本音で話せるような場を教師は作っていかなければならない。皆で道徳の授業で、本音を出し合い、自分たちが納得いく答えを子どもが主体になって出し合うことが大切なのだ。子どもが自分で考えたことであるならば、それが道徳心につなぐよう教師も努力が必要だが、そうすれば集団行動するとき、あるいは学校活動する時、自分で考えて子どもが主体となって道徳のある考えを自分で見つけ出すことができるのではないだろうかと私は考えている。そのためにも道徳の資料の選び方などにもよく考える必要がある。きれいごとに終わらない資料、児童の生活に使える資料、児童の興味、発達に応じた資料、狙いとする道徳的価値があらわに出ていない資料等を用いて子どもの心の本心を探り、リラックスして自分の本当の意見を言える雰囲気を作っていくことが、教科指導で大切な事になるのだと思う。そして、それがいつの日か、道徳の時間に習ったことを子ども達は目の当たりにするときがくるであろう。そういうときに、子どもは迷わず、信念を揺るがすことなく、子どもの道徳的実践を媒介にしながら、道徳的心情を高めることが出来、道徳の意欲と態度を高めることが出来るのだとあたしは考えた。道徳的な実践力というのは子ども達自身の内面から出ていくものであり、当然日常の生活で生きて働くように、道徳の指導も、学校全体を通じて行う道徳指導も相互して行われなくてはならないと思った。