軽躁的なうつ

テレビの軽躁状態の中に潜むもの

8丁目で私は客だけれど
話を聞いている時間の方が長い。

最近うつっぽいんだあという
人に
先週、何にもしないで休みなさいよ、
布団に横になって、テレビでもぼうっとつけて、
無駄な時間を過ごそうよ、
と話していたのだった。

何もしないで布団にいるというのは、
タイプによってはとても苦痛で、
それよりも、シティホテルに泊まるとか、
散歩のついでにダイヤモンドを拭いてもらうとか、
そんなことをすればいい人たちもいることは分かっているけれど、
その人はとにかく何もしないでベッドにいて、
寝たいだけ寝たらどうだろうという提案だった。

一週間たって、表情は少し良いようで、
話しかけてくる。

もうびっくりしたわ。
テレビって悲しいんだもの。
マッサージしてもらいながらボーっと見てたんだけど、
泣きたくなって。

こっちもびっくりした。

あのね、ここ何年か、試験勉強もあったから、
テレビはしまったままなの。
彼の部屋に行って、ごろごろ見てたんだけど、
見てるのがつらくなった。悲しくて。
みんな精一杯、軽薄に、軽躁的に、ちゃらちゃらと演じているんだけど、
何かとっても悲しいの。

ほら、桜が咲き始めましたよーなんて言うから
散歩に行ったりすると、
華やいだ気持ちと一緒に、
うつの気持ちがむくむく湧いてきて、
自己否定の感情が大きくなるでしょう、それを思い出した。

さくらもひばりも、春は私にとってうつなんだ。

それと似ているかもしれない。

ひとつは、落差がつらい。
自分はうつ。
テレビの中ではいつまでも続く軽躁状態。
はしゃぎまわって終わっている。
こちらの世界とあちらの世界の落差。
落差はやっぱりつらい。

でもその落差は、
いまはじめて目にするわけじゃない。
初めからわかっていることだ。
そんなものだろうと思ってテレビを見ていて、実際その通りだった。

チベット問題で大騒ぎして、聖火リレーを世界各国で追い掛け回していたかと思ったら、
四川大地震で急に世界が変わってしまう。
そしてまた日本の地震。これでまた世界が変わってしまう。
年金問題から始まって、後期高齢者医療制度とか、秋葉原の殺人事件とか、
それより前の荒川沖から始まった殺人の連鎖はあまり解決していないままで、
どんどん新しいニュースに注意が転導している。
何の対策も総括もなくただ忘れるだけ。
ひたすら新しい大きな刺激に100パーセント顔を向けてしまう。

見事なほどの無責任と忘却。

事件は次々にあるが、
反省も解決も追いつかない。
みんな積み残している感覚。

そんな中で私が画面に感じるのは、
鬱。

軽躁状態の中にたっぷりと含まれているうつ状態を
わたしは重く重く感じる。
テレビの画面を見ていれば見ているほど、うつになってしまう。
作っている人のうつと共鳴してしまう。

B層狙いで軽薄にしているけれど、
本当は悲しいんだと思ってしまう。
本当は怒っている、本当は憂えている。

*****
なるほど。そういうことはあるかもしれない。
作り物の軽躁状態を作っている側の心には重いうつがよどんでいる。
そこに反応しているのかもしれない。

たとえば、テレビドラマをみても、
学園祭の手づくりビデオにしか見えないこともある。
画面に映らない部分に、人の気配があって、
照明を持ち、レフ板を持ち、マイクを持ち、脚本を持ち、時間係がいて、
そんな中で撮影が続き、
役者は間違えつつすれすれでOKをもらい、
何とか締め切りまでに間に合わせる。

家庭ドラマを演じたところで、
女優三田さんの家庭はあの通りで、
脚本家はずっと職場に寝泊りしているし、
プロデューサーは女優と不倫している。
そんななかで多分こうだろうという筋書きと表情のテレビドラマが流され、
そのドラマに感情を動かされて現実が動き始める。

そんなおかしな世界を、
うつの人たちは
嘘と見抜いていて、悲しくなってしまう。
あまりにも無価値なので
悲しい。

せめてNHKのニュースはと思っていたら、9時のニュースで、
「ところが」とか妙な体言止めとかが多用されていて、
苦しくなって切ってしまったとのこと。
NHKFMのフラットなニュースだけでいいとのことだった。

*****
テレビは気晴らしにならず、
一見軽躁的に見える画面に
うつが満ちているとの発見は、

その人がわたしにサービスしての言葉だったのか、
本当に発見した重い言葉だったのか、よく分からない。

確かに、テレビのばかばかしい番組を見て気晴らしになんかならないのだとは思う。
制作費はどこに消えているのだろう。

正確な話、どの番組のことなのかもよく分からない。
何を見たのだろう。