日本語表現の可能性

日本語において表現の可能性はどれだけ残されているかを考える
2000年になったと思い感慨を覚えその時期に生きていたことを奇跡のように思ったのだがすでに2010年となりなってしまうと2100年ももうすぐと思い3000年も似た気分で迎えるのではないかと我々年寄りは思う
毎朝のゲートボールに行くのと同じ気分で3000年の朝を迎えるのだと思う
日本語の表現は日付をつけている限り新しい体験であるからいつでも新しいし新聞に書かれる言葉はいつでも新しい表現を切り開いている論理的に予想することができないものだからその点は興味がある建築現場でクレーンが倒れて人が死亡する最新建築の玄関ドアに子どもが挟まれて死亡するジャーナルとしてはその意味で新しいのだが表現行為そのものとして新しいのかといえばそうでもない
言葉の機能としてAであるかAでないかを指し示す、分類機能AとBは関係があると示す、関係付け機能などがまずあげられるが表現の可能性として分類機能を考えてみてもAに属するAaの、その中のAa1のという具合に下に細分化することはたぶん出来る
文明は進歩するのでウォークマンが出現し携帯で映画を観るようになり宇宙空間からでたらめを送るようになりそのそれぞれに対していつでも下位分類を作り出して対応しているようだ
言葉の歴史が深くなるとAではないBとかCとかZとかを提示することは困難になるそれができるのは体験そのものが新しいことが重要ではなくてむしろ他種類の言語と出会うことが重要なのだろうと思う
日本語は中国古代語からの直接の枝分かれとは考えられていないようで別の系統の言語と中国大陸言語との融合物だと考えられているらしいがそのあとのやや孤立した展開が面白い点だと思う
新しい文明に大いに影響を受けるが完全に飲み込まれることもなくむしろ平安時代の漢文系文章は捨てられているような具合で一番の秀才が書いた漢文は捨てられて表文化とは言えないようなかな文化が残されて日本文学全集に編集されているのがまず日本語の特徴だと思う
現代で言えば大学で研究されているような哲学が誰にも感銘を与えずむしろテレビドラマが時代を象徴するようなものとはいっても、例えに使うにも不適切なくらいテレビドラマも影響力が無くなっていてむしろテレビドラマと大学哲学は同じくらいになっているのではないかと思うが最近の若い人の動向はよく分からない
昔の漢文系で語るなら二流だと自覚していたようでむしろ漢文系は大陸漢文そのものを大切に残している日本人が英語の表現者として出現するにはまだ時間がかかるのだろうし時間がたつうちに英語は変質して中華風英語、中英語になるのだろう
いろいろな偶然でかな文化が生き残ったから日本文学全集は漢文ではなくてかな系なのかあるいは必然的にかな系になるべきだったのかよく分からない
現在の言葉がかな系だから日本文学全集がかな系であることは確かだと思う
アイポッドで電子音楽を聞くという点では新しいのだが音楽にのせられているメッセージは多分何も新しいものではなくてたとえば古代からの恋愛文学の反復だろう
生物のメカニズムとかホルモンとか神経伝達物質が理解されるようになっても主観的な体験としては初恋と桜の花との象徴的な関連であるので反復になってしまう
そのレベルで考えると新奇な表現というものはなかなか生まれない人間の身体とかDNAが急激に変化するものではないからだ
変化する起点としてはやはり他文化との接触であるしかし現時点で接触して日本語として新しい展開がありそうな他文化とは接触を済ませていて当分はあまり展開がありそうにもない宇宙人でも現れないかぎりは
したがって当分はAではないZを提示することはできなくてAのなかのa、そのなかの1で、さらにその中の、というように細分化していって、その先の分類を語るようになるだろう円周率は3.14とするのではなくて3.141としてさらには3.1415とするのであるがそのことが新しい表現とは考えられない細分化でしかない
しかしそうした細分化は脳機能の発達を要求するので大衆文化にはなじまないだろうむしろ円周率は3としてしまうような文化の方が大衆になじむものだし今後しばらくの日本語は老人が欲するものを粗雑な形で与える方向になるだろう
たとえば膝に関係するサプリメントしかし広告では決して関係するとは言わないたぐいのもの
かなと漢字と英語と中国語とブラジルの言葉とのまぜあわせのようなものが新しい表現を産んでいくがそれは多分表現の細分化であるまたは新しいもの同士や、新しいものと古いものとの関係を記述するものであって,古いもの同士の内的関連を新たに指摘するものではないだろうと思うそれを達成したのがたとえばアインシュタインのエネルギーと質量の関係である進歩があったとしてもたぶん100年に一度程度だろう円周率の計算が細密化されたとしてもそれを新発見とは言わないようなものだ3.14と3.15の間にあることは知られていることでその先は趣味による細部化でしかない
恋愛文学として考えても恋愛感情や行為そのものが革新されるとは考えにくいあいかわらず万葉集や勅撰和歌集の表現に自分の体験の等価物を見出して驚くのだろうそれは人間としての身体的な同型性だから仕方がない
一方、昔の学者が必死に取り組んだような収集と検索は革命的に進歩するはずでそのあたりも表現の細分化につながるだろうしかしたぶん脳の処理容量を超えるものになるはずでその場合には粗雑に理解するか粗雑ではない、圧縮を伴った抽象化に至るかであるが後者は難しいだろう
ーーーーー日本語の総体,日本文化の総体としてはそのような展望になるが一方,個人の日本語使用はまた別だろう反復する情報が溢れてさらに検索が容易にできるので自分に似た精神を発見することは容易になるはずだから自分の体験や表現や発想がすでにあったもので先人は随分先にまで行っているのだと知ることは多くなるかもしれない
その点では不幸であるような気もする何も知らないで興奮しているのが幸せだとも思う
ーーーーー日本語の歴史を見ると大伴家持と短歌,定家,貫之,とつながる系列,芭蕉が出て俳句が確立,西鶴などもまた同様で,ジャンルの確立と天才の出現がセットになっていて,その後はその天才を超えることはないようだむしろ天才は新しいジャンルを確立することで出現すると思われる
ーーーーー新しい表現ということで言えば現代では映像や音楽は新しい次元の創作が可能になっている
しかしそれが根本的に言葉を超えるのかと言えば困難がある
人は感銘を反芻するとき言葉で行うことが多い妄想を考えるとき言葉で考える
言葉が脳の網の目をつくる
言葉を分析して妄想だと判断することは映像を分析して妄想だと判断するよりも数段容易である
体験を表現するものとして表現の奥に常にその元になった体験を想定するならば表現は体験の代替物に過ぎないのだから表現などなくても体験すれば足りるだろう
そうではなくて表現そのものが体験でありその表現がシンボルしている体験は表現行為そのものだという場合に新しい表現のジャンルが広がる
そしてその表現を体験することが体験そのものなのである
恋愛や性行為で言えばそうしたものの代理として表現したり鑑賞したりしているのではなくて恋愛でも性行為でもない表現行為であり鑑賞行為なのである代理ではない
脳の構造で言えば恋愛回路や性行為回路を使ってはいるがそれをサブセットとしてさらに高次元の体験を組み立てているということだ
恋愛感情や性行為は部品なのである行動セットの一部に過ぎない積み木の部品である
脳の既存のサブセットをどのように組み立てて表現し鑑賞するかについてはやはり新しい可能性として残されていると思うが脳の癖でやはり古いものを好み安定を好むので文化の一部としては先端的な試みは可能であるが大衆化はしないし商売にもならないと思う
本質的に新しい味など誰も要求していない昔からの焼き鳥の味が恋しくなるというだけである